「遅いなあ」


呟いてみると、その声は案外しっかり出て、ああ今日は調子がいいみたいだ。とひとり笑う。
あんな部屋に閉じ込められてたから、(それは俺を思ってのことだろうけど)頭がおかしくなったのかもしれないな。みんな今頃、血相変えて探してるかな?それを考えてまた可笑しくなる。案外、自分は周りの人間が心配するよりは全然落ち込んでなくて、どっちかというとまわりの人達のほうが嘆き悲しんでるような感じがする。うん、というか多分周りの人達の方が俺よりずっと落ち込んでる。まわりの人間が俺より先に嘆き悲しむもんだから、張本人の俺はきれいに置き去りにされている感じ。
俺は全然笑えるし、楽しいし、むしろ自分という存在がハッキリ見えたようでなんだかクリアな気分なんだけどな。
古い趣を凝らした時計の振り子が秒を刻む音がする。賭けには、勝つのか負けるのか?俺は生まれた時からどうやら運命の女神様に尽く嫌われているらしく、幸運だった事がない。俗に言う、薄幸な男だ。そういうところが女にもてるらしいが、俺はどちらかというと薄幸美人より本当に運に恵まれてそうな人の方が好きだ(これって正反対の人に憧れる性質?なんか磁石みたい)。
ああ、だから俺はリボーンが好きなのか。なんて。
自分がクリアになってから、こういう事に気付くなんて自分でも呆れ果てるぐらい馬鹿だと思うし薄幸とも思う。あ、でももしこういう事にならなければ俺はこの気持ちに気付くことなくリボーンを殺そうと追い掛け回していただろうから、それはそれで幸運なのかな?モノは考えようっていう言葉もあるし。ポジティブシンキングって奴。
堅いテーブルに突っ伏したまま、お気に入りの葡萄酒に手を伸ばして、華奢なグラスに注ぐ。手元が狂って少しテーブルに零れた。あーあ、もったいないなあ。なんてまた笑う。リボーンがお気に入りのワインと、リボーンの分のグラスはまだ手が付けられていない。古めかしい時計が秒を刻む音だけがやけに鮮明に聞こえた。

                                         

この場所を分かってくれるかな?俺はここが大嫌いだったけど、今はだいすきな場所になってるし。きゅ、と胸に小さな痛みが走って、感傷に浸る自分がやけに滑稽に思えた。
俺とリボーンはこの場所から始まった。ここで完結できるなら、それほど嬉しいことはない。…趣を凝らした薄暗いホテルの一室。よく見回してみると、あの時に全然気にも留めなかった装飾品がやけに素晴らしいことに気が付いて、ああ来て良かったと笑う。もしリボーンが来なくても。
相変わらず時計の音しか聞こえなくて、それでも今俺が居るべき場所に比べたらこの静けさは好きだなあ、なんて零れた葡萄酒に人差し指を伸ばし、指に付いた液体をペロリと舐める。久しぶりに味わう葡萄酒は随分と刺激的な味で、きっともう飲む事がないんだ。と思うとそれはそれで寂しい。ちらりと時刻を見ると、深夜1時12分。もう来ないかなあ、それより、あのメッセージ聞いてくれたかなあ?少し心細い、時間がないのにね。いつ見つかるかもわからないのに、これで見つかったら俺はあえなくゲームオーバア。
ギィ、とこれまた古めかしい扉が背後で開く音がした。心臓が跳ねる。…ああもう、憎らしいくらいにグッドタイミング!


「さすがは最強のヒットマン。時間には正確なんだね」


振り向かずとも、誰かは分かる。突っ伏していた体を緩慢に持ち上げ、ゆっくりと後ろを向く。扉に立ち尽くしたままのリボーンはえらく仏頂面で、どうせ最後なら笑ってきて欲しかったなと到底無理な考えが頭に浮かんだ。


「今、俺賭けに勝ったよ。本当に久しぶりに。…ここを分かってくれてありがとうね」
「…………クレイジーだ」


吐き捨てるようにリボーンが言った。俺はすう、と笑みを作る。リボーンの暴言は、冷たすぎてやけに心地が良い。大体、生きてきた中で俺にこんな暴言を吐く人はリボーン以外に居なかったから。(大切に、大切に扱われてきた)クレイジーなんて、嬉しい言葉をありがとう俺の愛しいミスター・ヒットマン!


「うん」
「大体、どっから持ってきたんだ。その服」
「クローゼットに仕舞ってあったんだよ。もう着る事はないと思ってたけどね、…ここまで来るのにパジャマだと目立つだろうしね」
「趣味の悪いそのシャツも大概だ」
「流石にリボーンみたいにセンス良くはなれないさ?それに、こういう風に再現してみるのも悪くないだろ」
「良いも悪いもねーだろ」


相変わらず仏頂面で、でもどこか俺にはなんと良い表していいのか分からない雰囲気を漂わせたリボーンが、ふっと形の良い赤い唇を吊り上げた。何故だか、その表情を見ると、ひどく悲しくなって、ああこれが最後なんだなと心のどこかで傍観している俺が呟いた。


「座ってよ、最後の晩餐の始まりだ。葡萄酒はあるし、…ああ、でもパンがないや」


ハッとリボーンが鼻で哂って、脇に鎮座しているトルソーにボルサリーノを引っ掛けた。その動作、笑みにはまったくの無駄がない。目を開けて、何度もシャッターを下ろすようにゆっくりと瞬きを繰り返す。記憶に二度と、あの世まで、来世まで持ってゆけるようにと焼き付ける。
椅子を音もなく引いて、リボーンが優雅に俺の目の前に座った。複雑な色を湛えた、真っ黒な目と吊りあがった唇。もう一度ゆっくりとシャッターを下ろす。


「何変な顔してやがんだ」
「ん?別に何でも無いよ」


とくとく、と葡萄酒をリボーンのグラスに注ぐ。濃い赤紫の液体が、ライトを反射してそれがあまりに綺麗で、またもう一度忘れないようにゆっくりと記憶に焼き付ける。


「……これは多くの人の為に流す私の契約の血である、なんてね」
「何が多くの人の為、だ。誰の為でもねーだろ。誰にも貢献なんざしてねーくせに、ふざけたこと言ってんじゃねえ」


嘲笑。リボーンのこんな残酷さが、リボーンにはよく似合う。…今日のリボーンはよく笑う。こんな事はめったにないから、どうやら俺今日は相当ついてる。ああ、流石!運命の女神は粋な事をする人だ!もしもあの世で会えるなら一言皮肉と、感謝を。


「乾杯しよう」
「何にだ?」
「…茶番に」


またククッと喉で哂って、華奢なグラスを白いこれまた華奢な手で持ち上げた。爪先に塗った黒いネイルが光を反射する。ゆっくりと、記憶に焼き付けて、ああどうか来世まで持ってゆけますようにと誰でもない誰かに真剣に祈った。


「終わりに、乾杯」


キン、と金属のぶつかる甲高い音がした、葡萄酒が少し跳ねる。
グラスに口をつけて、飲み干す。先ほど舐めた味とは数十倍も違う、懐かしくて舌が痺れる位刺激的な酒の味。リボーンは1口飲んだだけで、葡萄酒を飲み干す俺を射抜くような視線で見ていた。グラス越しに歪んだリボーンが、何故だか何時もとまったく違う表情をしている気がして、ああやっぱり運命の女神さまは粋な人だ。とまた胸の中で傍観者が呟いた。





「久しぶりにお酒飲んだよ。やっぱり美味しいや」
「未成年が」
「リボーンもだろ?」
「俺は少なくともお前よりは大人だ」
「四つも下なのに」


肩を竦める。すらすらと言葉が出てくることに、驚きを通り越して感嘆。俺は、こんな風にリボーンを喋る事なんてなかったから。繰り返し繰り返し瞬きをする。どうか生まれ変わっても会えますように、と。我ながら随分ロマンチックな事を考えている、と嘲笑(リボーンのように美しくはならない)。
品の良いシンプルなジッポを開く音がして、直ぐに煙の匂いがした。これまた久しぶりの煙草の煙にけほけほと咽る。ああ、そういえば禁煙してもうどれだけたっただろうか?咽る俺をリボーンが蔑むようにまた嘲笑する。


「俺を気遣う心っていうのはないの?」
「何でアホ牛を気遣う必要があんだ?」
「質問を質問で返すのはダメなんだってさ」
「ハッ、必要ねーな。ダメもクソもあるか。第一誰が俺に指図できんだ?」
「ツナさんとか」
「無理だな」


ボスなのに、と笑うとリボーンが珍しく更に口を歪めた。目は笑わない、ずっと俺を射抜いたままだ。俺はボンゴレじゃねーからな、と形の良い唇が言葉を紡ぐ。
本当は、俺は今夢を見ていて目を開けたらいつもの真っ白い天井で、相変わらず軟禁状態で、白いパジャマを見ていつもどおりに違和感を覚えて目を閉じるのかもしれない。ああ俺の牛ガラのシャツは何処?なんて。
今頬を抓ると、それこそまたあの白い天井が目に飛び込んできそうで、それまでに何とかこの光景を目に、脳に、魂に刻み込んでおこう。大体、これが現実だか夢だかわかんないなんてそれも大概おかしいんだけど(頭がイっちゃってる?)


「ああ、もう一時半を過ぎた。お子様はおねむの時間なんじゃない?」
「ほざけ、アホ牛」
「うーん、折角なんだから"ランボ"って呼んでよ」
「お前の名前はアホ牛じゃなかったのか」


なんてワザとらしい口調で、葡萄酒を呷る。


「アホ牛。つまみはねーのか、気がきかねーな」
「あるじゃない、ここに」
「葡萄酒に葡萄、なんて悪趣味な組み合わせを好むのはお前ぐれーだ」
「……うーん、そうかな。普通に美味しいと思うけどね」


プチ、と皿に入った葡萄を一粒口に入れる。甘酸っぱさは、やっぱり液体になった葡萄よりも葡萄らしくて(ああ、当たり前か!)少し笑みが漏れた。リボーンのあきれたような、退屈そうな溜息が聞こえて、顔を上げると凍りつくような視線がまた俺の頭をブチ抜く。リボーンに殺されるなら、拳銃よりも視線が良い。視線で射殺されるなら、それはきっと俺の一番の願いだ!


「何でそんな怖い顔してるの」
「………何で俺を呼び出した?」
「やれやれ、最後の晩餐って言ったじゃない。それに完結にはリボーンが必要なんだよ」
「完結、ハッ一端の役者気取りか」
「そんなんじゃないよ、リボーンだってよく分かってるだろ?」
「何を分かるってんだ」


また吐き捨てるように言う。相変わらず古ぼけた時計が重たい秒針を退屈に動かす音が聞こえた。
始まってないなんて。リボーンにはそうだっていいさ。でも最後くらいは俺のシナリオに付き合って欲しいんだよ、俺のシナリオが始まったこの場所で。…なんて。そんなこと茶番に過ぎないけどね。実際のところ俺は逃げてるだけかもしれないし、それに巻き込まれてるリボーンはきっといい迷惑なんだろう。
でも、本当に最後なんだから、少しくらい付き合ってくれてもいいんじゃない?


「始まったよ、この場所で」
「手前が何を勘違いしてんのかはしんねーがな、そんなもん存在してねえ」
「じゃあ、どうしてリボーンはここが分かったの?」
「…さあな」


ふう、とリボーンが煙草の煙を吐き出す静かな音。机に無造作に置いてある、リボーンの細身の煙草から一本抜き取り、ジッポで火をつけた。久しぶりの煙草の味に、先ほどよりも盛大に咽る。


「さあなって、どういう意味?」
「手前で考えろ」
「じゃあリボーンも俺と同じだって考えていいわけ?」
「そう思いたきゃ勝手に思ってろ」


また鼻で嘲笑。どんな人のどんな笑い声も、この皮肉屋の嘲笑には敵わない!


「…そういや」
「何?」
「先刻、死に掛けの犬を見た」
「へえ、それで?」
「それだけだ」
「助けてあげたの?」


一拍、何かを思い出すように間を空けて、少し奇妙な表情を作った。


「何で俺が助けなきゃなんねーんだ、あんな汚い犬」
「知らないよ、でも」
「なんだ?」
「死に掛けの犬なんて、俺みたいだ」


ふふっと笑うとリボーンが不快という表情を作って、ふうとまた煙を吐き出した。灰色が天井に上って、出口のない部屋の中をさ迷う。


「さよならだけが人生だって知ってる?」
「お前が知ってて俺が知らないことがあると思ってんのか」
「あは、それもそうだね。俺その言葉好きなんだ。さあ杯を俺に頂戴よ、さよならにもう一度乾杯だ」
「死ね」


シンプルな耳に慣れた暴言。背筋がぞくぞく、する。


「……すきだよ」


斜め上を向いて尊大に煙草を拭かしていたリボーンの眼だけが俺の方を向いた。


「まあ、順番が狂ったけど。常識的に行くと一番初めに言うべき言葉だけどね。すきだよリボーンのこと」
「気でも狂ったか」
「狂ってるんじゃない?でも、やっぱり俺はリボーンのことが好きだ。リボーンがどう思ってようと構わないよ。…俺は言い逃げして、また来世であんたを好きになるから」
「そりゃあ随分と熱烈な告白だな、ストーカー殺人はご免被るぞ」
「そんなに狂っては無いと思うけどね」


もう一度葡萄酒をグラスに注ぐ。久しぶりに飲んだから、酔いが回るのが早いのかもしれない。でも、お酒の力を借りて、なんて如何にもチキンっぽくていやだなあなんてどこか上の空。リボーンが何故かやけに泣きそうな顔をしている気がして、酔いのせいだと思い込む事にする。俺はリボーンが泣く姿なんて見たら、本格的に頬を抓らなくちゃならないから。


「すきなんだよ、やっぱり。色々合って、ずっと嫌いだとかなんだとかよく分かってなかったけどさ」
「…………」
「愛してるよリボーン、なんてね」
「何でそれを今俺に言うんだ?」
「だって、今言っとかなきゃ。最後の日には相応しい演出だろ?」
「ハッ、じゃあ脚本の最後はどうなってるんだ?天才脚本家に伺ってみようじゃねーか」


まるで毒を吐くように、リボーンが吐き捨てる。ああでも、想像してたよりは大分マシな答えが返ってきたなあ。本当は、無視されるのが落ちだと思ってたし。本当は嘲笑して欲しかった。嘲笑して、一蹴。ああ、なんて最高なんだろう。あんたのその性格の悪さが、俺には天使に見えるよ!


「最後は、最後にならないと分からないよ?でもとりあえず今日が俺にとっての最後の日で、登場人物は俺とリボーンだけだ」
「勝手に登場人物にされるこっちの身にもなってみろ」
「やだよ。少しの我がままくらい聞いてくれてもいいんじゃない?」
「何が"少し"だ。我がまま放題のくせに」


もう一本新しい煙草に火をつける。あっという間に部屋はリボーンの煙草の匂いが染み付いて、ああこんな匂いの中で死ねるなら俺はなんて幸せなんだろうとわらう。葡萄をまた一粒、一粒口に運んでは甘酸っぱさを記憶に焼き付けようか、と迷った。馬鹿みたいだけど、やっぱりリボーンの記憶が最優先なんだから。
今まで、俺とリボーンはよく分からない宙ぶらりんの関係で、大抵俺たちの間にあったのは愛とか恋とは、一億光年くらいかけ離れてて。俺たちの関係でもっとも近い言葉を使っていいあらわすならば"憎悪"とかがよく合う。そんな関係だった。そのくせ、
どちらかが、好き、だとか愛してる、だとか言ってしまえばそんなものあっという間に空中に溶け込んで嘲笑されてそれで終わり。アッディーオ、もう会わないよ。だ。だから、俺は最後の日の特権を使う。言い逃げして、それで終わり。俺は清清しく来世へ旅立てる!


「まあ、甘やかされて育ったってのは認めるけどね」
「自棄になってるだけだろ」
「それは違う」


キッパリと否定。あいかわらずジトリと目だけを動かしてリボーンが俺を視線で捕らえた。不快な表情を隠そうともせずに、表情が歪んでる。


「終わりだからって自棄になってるわけじゃないよ」
「じゃあなんだってんだ、今更」
「今更だから言うんだよ。俺はリボーンがすきなんだ」
「不愉快だ」


煙をわざとこちらに向けて吐き出す。自分でつけた煙草は殆ど吸わない内に灰皿に潰してしまった。けほけほとまた軽く咽て、恨みがましく睨むとそれよりも本当に殺されそうな視線が俺の頭を射抜く(早く俺をその視線で殺しておくれよ!)。


「ねえ、リボーンは俺の事どう思ってるの」
「……どうでもいい」
「無関心って奴?」
「そうとも言えるな」
「リボーンは矛盾してる」


形の良い眉毛を片方吊り上げて、殺気が立ち込めてくる。思わず産毛が逆立つほどの敵意すら久しぶりだとやけに心地よいもんだ、一人で感嘆。此処まで俺と言い争いが続く事なんてなかった。大体、リボーンはもう席を立っているか口を開かないかのどちらかで、どうせこんな夢のような展開なら、もうすこし贅沢を言ってもいい気がする。


「矛盾してるよリボーン」
「知るか、第一、手前のほうが矛盾してるだろ」
「何で?俺はただ最後の日を楽しんでるだけだよ?」
「クレイジーだ」
「それ先刻も言った」


先刻までのリボーンとの(おおよそ普通とは言いがたいが)雑談の雰囲気はあっというまにどこかのゴミ箱へ投げ込まれ、リボーンは不愉快だと表情を隠しもせずに煙草を拭かす。


「そんなけ軟禁されてりゃあ気も狂うだろうな」
「ねえ、リボーン。ヴァイオリンを弾いて?」


リボーンのセリフをさえぎって、言う。その続きは聞きたくない、まだシナリオはそこまで進んでないよ?勝手に書き加えないで、リボーン。


「…何で俺がそんなこと。突拍子がなさ過ぎるんだよ」
「弾いて欲しいからだよ。本当はピアノが聞きたいんだけど、ヴァイオリンしかないから。弾けるでしょう?リボーンに出来ない事はなんにもないんだから、ね?」


舌打ち。葡萄酒を苦い顔のまま飲み干し、深い溜息を吐いた。俺が何時ものようにすうと笑うとリボーンの眼にまた複雑な影が差した気がした。棚に飾られてあったヴァイオリンを取り出して、手渡す。それでも、眉根を寄せたまま俺のほうを見ようともしないから、なんだかひどく悲しくなった。でもよく考えてみればその対応が当たり前なわけで、今までのが普通じゃなかったのか。ほんのちょっとの間にこの俺たちのやり取りに順応してしまった俺自身に苦笑する。リボーンの目の前にヴァイオリンを翳したまま、時間を刻む音がする。


「一人で百面相してんじゃねえ」
「してないよ」
「早く退けろ、鬱陶しい」
「弾いてくれなきゃ嫌だ。ね、俺の最後の一生に一度のお願いなんだ。もうすぐこの鬱陶しさからも開放されるんだよ?」
「…………」


またリボーンが舌打ちして長い溜息を聞こえよがしに吐いたあと、乱暴に俺の手からヴァイオリンを奪って立ち上がった。


「ありがとう」
「……一曲だけだ」


かくん、と首を傾けて(やっぱりリボーンはヴァイオリンも弾けるんだ)優雅にヴァイオリンを翳す。少し下を向いた角度から俺を見上げた目は、相変わらず見た事がないくらい複雑な色をしていた。


「そうだなあ、明るい曲がいいな。うんと明るくて、気持ちが弾むような」


無言でリボーンがボーゲンをまた無駄の無い動作で持ち上げ、目を伏せた。長い睫が照明で影を作って、俺は思い出したように瞼をゆっくりと下ろしシャッターを切る。
ボーゲンが動いて、リボーンの白くて長い指(この指で数え切れないくらいの人を殺してきたなんて嘘だ)が弦に触れた。途端に、魔法のように音楽が流れ出す。聞こえてきたのは静かな短調で始まる三拍子の悲壮な曲。注文どおりだ、なんて。リボーンはきっと暗い曲、をリクエストしたら此方が嫌になるくらいの明るい曲を演奏しただろうから。
リボーンの白い指と美しいヴァイオリンとプロ顔負けの演奏。なんて、なんて美しいんだろう!この音もできることなら来世まで持ってゆきたいよ。でも、本当に来世なんてあるの?(考えたくない!)
三拍子の悲壮なワルツがパヤティックな音色で続く。そういえば、リボーンのピアノを聴いた時もワルツを弾いていたなあ。気の早い走馬灯が頭に巡ってはちかちかと美しいガラス破片のように脳の中で点滅する。
演奏するリボーンから少し目を離して、周りを見回した。ここは、俺にとっての始まりの場所だ。俺たちにとっても、であって欲しかったけど。世間一般、常識的に考える俺たちの年頃の恋愛の手順からはえらく逸脱した始まり方で。俺はこの場所でリボーンと初めてセックスをした。その行為すら、常識とはかけ離れていて、セックスと言うよりはもっと暴力的な何かだった。俺たちの間にあったのはおそらく、お互いを殺してしまおうという意志だけで、実際ここで本当にリボーンと身体を繋げたのかは、俺はハッキリと覚えていない。でも、なにか強力な印象が俺の頭にこびりついていて、相変わらず俺は今までずっとリボーンを憎んできたつもりだった。

                                     

暗い過去を思い出すには、丁度いい。またリボーンに目を移す。目を閉じて、リボーンは相変わらずテンポが少し早くなったワルツを演奏していて、少し揺れる体、とかボーゲンをもつ白い手首とか弦を押さえる細い指に黒く塗った爪が、胸が苦しくなるくらいに欲しくなって、俺もしっかりと目を閉じた。毒だ、と口の中で呟く。
俺の記憶のなかのリボーンは何時も俺を無視していて、偶にいっそ清清しいくらいの憎しみが篭った目を俺に向けて、それでも何故か複雑な表情で俺を殴っていた。俺は、抵抗しようと思えば(それが成功したかしないかは置いておいて)できたし、きっとツナさんとかに言えばその暴力は止んでたんだろうけど。でも、俺はそれをしなかった。別にマゾヒストって訳じゃなくて、リボーンがあんまり奇妙な表情で俺を殴るもんだから、抵抗しようと思ってもできなかった。
唇とか口の中が切れて鉄錆の味がするキス、とか、終わった後は全身が青痣と切り傷と引っかき傷だらけのセックスとか、起き上がった時に目に入るそこいら中に散らばった破けてそれが何だったのかも分からない服、とか。
…俺はリボーンに強姦された、とかそんな事は考えた事がなかった。不思議な事に。大抵俺は抵抗なんてしなかったのだから、和姦かな?
基本的に、俺はリボーンとの情事(と言っていいのかは判らない)が終わった後、ベッドで目を覚ますなんて良心的なことはなかった。冷たい床にそのままの状態で転がされて、寒さで目が覚める。そして惨状が目に入って、リボーンの痕跡が跡形も無い事に信じられないくらいの寂しさが襲ってきた事を、俺はよく覚えている。
本当にそれだけだった。何で、昔の俺がリボーンの事がすきと気が付かなかったのかは、本当によく分からないけど。……でも、今ならハッキリと分かる。
リボーンの演奏はいよいよ佳境に入り、思わず耳を塞いでしまいそうなほどヒステリックな高音を華々しく伸ばして、美しい音の余韻を残しながら消えた。
その余韻が完璧に消えるまで、俺は目を閉じたままで、それからまたゆっくりと目を開けると、リボーンがヴァイオリンを下ろしてひどく複雑な表情をしているのが分かった。パチパチ、と精一杯の拍手をすると、つまらなさそうに両眉を吊り上げる。


「凄い、凄い。さすがリボーンだ、本当に何でも出来るんだね」
「今更だ」
「自信家なだけあるよ。…これで俺も思い残す事なんて無いや」


そう笑うと、ひゅっと風を切る音がしてボーゲンが俺の首を掠った。僅か1cmの距離で俺の首に突きつける。リボーンの目は暗く沈んだままで、真っ黒なのに複雑な色っていうのがどうにもシュールですこしわらう。


「……大根役者が」
「いいや。ハリウッドスターさ?最高だ!」
「自画自賛もいいとこだな。いい加減そのふざけた表情を止めろ」
「これが俺の素の顔」
「じゃあその面もう一生見れねーようにぐちゃぐちゃにしてやる」

                                                                       


リボーンのターゲットになった人って本当に幸せなんだなあ。なんて割りと場違いな事を考えた。死ぬまでリボーンのこの美しい顔を見ていられるなんて、そんなの至上の幸せだ。何者にも替えられない!俺の思い描いたシナリオは美しく、かつ完璧になぞられている。運命の女神さまも最後だからって甘くなってるのかな。もし会えたら、やっぱり皮肉はよしておこう。心からの謝辞を!


「うん。して?」
「………ざけんな」
「やれやれ、ふざけてなんかないよ」
「じゃあその顔止めろって言ってんだろ」


珍しく、感情をむき出しにした声でリボーンが少し大きな声を出した。俺はクセになっている笑い顔をすっと取り消し(やればできるもんだ)リボーンのシュールな目を見返す。


「ねえ、シナリオの最後だ。お願い」
「先刻のが最後の願いじゃなかったのか?」
「…うーんじゃあ前言撤回。これが最後」


そういって、テーブルに腰掛けていた体を動かしリボーンのネクタイを無理やり引き寄せて深いキスをする。久しぶり過ぎる感覚と、リボーンの品の良いコロンの匂い。リボーンの手からバイオリンが滑り落ちて、ぐわんとえらく奇妙な音を立てた。そのまま体重をかけてリボーンを床に引き倒す。ダンッと二人分の体重が床にぶつかる鈍い音。
貪るように、暴力的にキス。リボーンが歯を立てて、俺の唇を噛み切った。鋭い痛みを、肉の裂ける小さな音。(ああひどく心地よい、羊水に浸ってる気分だ)あっというまにリボーンがマウントポジションに移動し、俺を冷たい目で見下ろした。真っ黒な目に、見下ろされてその目に囚われた後頬に強烈な一撃。反対側の頬にも。容赦加減は無しで、殺し屋の一撃は普通の人のそれよりも、ひどく痛くてもし俺が一端のヒットマンでなければ、あっというまに失神してるだろう。
シナリオどおりに行った、また傍観者が呟いた。真っ赤な鮮血が飛んで、着ていた牛ガラのシャツの上部分はあっというまに唯のクズ布になっていてああこれが俺たちの正しい姿だ、とひどく納得する。その間にも、容赦なく首や肌に傷がついて、リボーンを見あげると、相変わらずひどく奇妙な表情をしていた。
痛みは、あんまり感じない。むしろ、リボーンが愛しいと、そう思う。ギチギチ、とリボーンが爪を立てて、俺の頬が破れた。ああ、この半年の間に直った痕がまた蘇ってる。嬉しい。…毎朝鏡を覗くたびに、薄れてゆく痕をみて、俺がどんなに心細かった事か!
気が付くと、リボーンは俺の首に歯を立てていて、尖った歯が首の柔らかい肉に食い込む感触がした。ああ、これがヴァンパイアに血を吸われる人の気分か、随分と幸せなんだな。とか意味の無い事ばかりが頭をよぎる。
ねえ、そんなことばっかりしてないではやくおれをころしておくれよ。
何度も何度も頬を打たれる。髪の毛を引っ張られる、床に何度もぶつけた頭に鈍い痛みを感じる。でも、それがすべて幸せ。ああ、クレイジーさ、でも愛に酔って死ぬなんて至上の幸せだと思わない?
リボーンが俺の首に手をかける。苦しい、苦しい、けどこの幸せな気分は何?リボーンの歪んだ表情を目に焼き付けておこうとシャッターを下ろそうと思ったけど、瞼を下ろせない。ああ、やっぱりリボーンを最期まで見ておこう。ギチ、と爪が食い込む。喉が潰れそうだ、いっそ潰れて、幸せな死に方だ!死体はきっとひどく醜い、顔は青紫で目は上を向いて口からはだらしなく涎が垂れてるだろう、でも俺はわらってるよ。だって幸せなんだもん!


「…………何で、」


ふいに、喉にかかった手の力が緩まった。ひゅう、と空気の通る音がする。…なんで、止めるの。とリボーンを見ると、照明の逆光で、でも今まで見た事が無いような表情をしているのが分かった。ぎゅう、と胸が締め付けられるくらいに苦しい。喉を絞められるより、苦しい。…ねえなんでそんな顔してるの。止めてよ、リボーン。いいや、止めないで。クライマックスはすぐそこだ!


「笑ってんじゃねえッ」


リボーンらしくない!この奇妙な表情はなんていう言葉で表せるの?


「ねえ殺してよ、死ぬならリボーンに殺されたいんだ」
「止めろ、止めろ、言うなッ」
「何で?アンタらしくないよ。俺は病気でなんて死にたくない!」


冷たい白いベッドの上で、たくさんの人に見守られて苦しんで死ぬなんてまっぴらゴメンだ!その為に、それを分かってたからリボーンがここに来て、俺の茶番に付き合ってくれたんじゃないの?
相変わらず歪んだ表情で、リボーンが苦しそうな声をだした。(どうして俺よりアンタが苦しそうなの)


「止めてよ、なんであんたがそんな表情してるの」
「うるせえッなんで笑ってんだ!」
「笑ってなんかないよ?」


パンッと張り詰めた音がして、右頬にまた強い衝撃。


「何で、笑ってやがんだッ」
「…笑ってるかはわかんないけど、今俺はすっごい幸せな気分だよ?」
「止めろッ」
「何を?俺は止めて欲しくない。俺は最期までリボーンを見て死にたいんだよ!何で何でもうちょっとのところで止めるの?やっと憎い俺を殺せるチャンスだろ?」
「黙れ」
「黙らない!はやくころして!」


悲鳴、によく似た声が、自分の声じゃないみたいに聞こえた。それがやけにヒステリーを起こした女みたいで、俺は最期まで格好悪いままなんだな、と嫌味なくらい落ち着いた心が呟いた。俺は、病気で死ぬ。シャマルも治せない病気で、苦しんで、苦しんだ後ギリギリまで延命されて死ぬ。俺は大切にされ続けら、俺にその死に方を強要、俺の大切な人達を裏切れない。でも、でも俺は半年、真っ白な病院で軟禁(なんて言ったらボスはひどく悲しむだろうけど)されている間、ずっとリボーンを待ってた。ずっと、ずっと。きっとリボーンが来てくれたら、その思い出を抱いて、病気で死ぬ事も受け入れたはずだけど。


リボーンは来てくれなかった!


俺はそんなに我慢強い方じゃないから。リボーンに会えずに、歩けなくなってそのうち死ぬなんて嫌だ。たとえそれが美しい死に方だとしても、俺はリボーンに殺されるのが幸せなんだ!リボーンを最期まで網膜に焼き付けて、死ぬ。ああなんて幸せなんだろう?
俺は真っ白な病室で毎朝、毎晩その事を考え続けた。リボーンに殺されたい、たとえ死に様が美しくなくても、ボロボロで絞殺によって顔が青黒く変色したって(何度も見たことがある、とってもひどい顔!)俺はリボーンに殺されたいのに。
ねえ、あんたは俺の元に来てくれなかったろう?俺がどれだけ待ったと思ってるの?その間に俺はあんたがもう死にたいくらいに好きになったんだ、最期くらい俺を手に掛けて、殺して!責任を取って!



                               


「クレイジーだ」


ああ、三度目。なんて美しい暴言なんだろう。
リボーンがまたくしゃりと顔を歪めた。その表情が、ありえないくらいに俺の心臓を跳ね上げる。逆光でよく見えない、リボーンが俺の首にまた手を掛け、でも力は加えないまま俺の目を見つめ返した。心臓が跳ね上がって、今にも口から飛び出してきそうだ!
ああ頼むから、リボーン。お願いだから、泣かないで愛すべき俺の皮肉屋。俺だけのかっこいいリボーンでいてよ!最期に格好悪いところなんて見せないで、お願いだから!


「……頼むから、リボーン。泣かないで」
「誰が」
「俺だけの強いリボーンでいてよ、お願い」


そういって、右手をリボーンの頬に伸ばした。俺の右手も、たくさんの引っかき傷だらけで、いつの間に、少し吃驚する。でもやっぱりさすがリボーン!逆光で、涙だと思っていたそれは、親指にぬるりとした感触を与え俺の鮮血だったことがライトに当たってよく見えた。
ほっと溜息。これで涙なんか流していたら、俺は発狂してたよ!


「……リボーン、想像してみてよ」
「…喋るな」
「いいから、想像してよ。真っ白な部屋で、外にも出られない。全てが白くて、決められた時間に人が来る」


淡々と語り始めると、リボーンが俺の首置いた手に少し力を入れた。ああ、苦しさが心地よい!


「みんなそれぞれ悲しみを覆い隠した顔で無理やり笑って、ああランボ大丈夫だよ、なんて信じられないことをさも当たり前みたいに言うんだ」
「…………」
「みんな、俺を置いてけぼりで悲しむんだ。それに、病気で死ぬのって痛くて苦しいんだよ?リボーン、俺が痛いの嫌なことよく知ってるだろ?」
「…知るわけねえだろッ」
「うん、…だから、リボーンに殺されるんだ。俺はリボーンを記憶に焼き付けて、華々しく、清清しくあの世へ飛び立ってまたこの世に生まれ変わってリボーンを見つけるんだ」
「イカれてる!」
「いい脚本だろう?お涙頂戴の完璧な悲劇さ」
「ありがちすぎて、退屈すぎる」


ぐぐ、と手にリボーンが手に力を込めた。ああ、今俺の頬に降って来た雫は俺の返り血だと、そう信じることにしよう。肺が悲鳴を上げる、その悲鳴が脳にも伝染。俺はリボーンから目を離さない。リボーンの顔は逆光で、真っ黒。ああ、でも俺はいつものリボーンの顔が見えるよ!あの人を蔑んだ目をした、綺麗過ぎて鳥肌が立つ暴言を吐くヒットマン。願わくば、リボーンの脳から俺を殺したという事実が消えませんように。どうか俺を殺した、という事実に一生縛られてくれますように。
神様、叶えてくれたことのない俺の最期の願い事!ちゃんと最期は聞き入れて、地獄に飛ばされたって構わない。
あと酸素は残り僅か、ひゅーひゅー、と無意識に喉が鳴ってる。なんてトラジック!残りの酸素を使って、最期に呟きたい言葉があるんだ。お願いまだ待って(またお願い、だ)、もう少しで俺は望んだ死に方で死ねるから!


「…すき」


ぐぐ、とまた首に力が入った。リボーンの細くて華奢な白い指、黒い爪先、歪んだそれでも美しい顔。ぽたぽたと俺の頬に落ちる雫は全て血液さ!そう大好きなリボーンが俺から取り出した血液、とっても羊水に似ている。
半開きの俺の唇をリボーンが塞いだ。目は閉じずに俺を射抜いている。その瞳が濡れてるのは何故?止めてそんな悲しい目をするのは、最期までかっこいい俺だけのリボーン。
ぞわり、と産毛が粟立った。ああ、脳に酸素がなくなってゆく!

























終幕