キイイ、と黒板を引っかいた時のような、ひどい高音が誰もいない廊下に鳴り響いた。
ぐらぐらする、ひどい吐き気と頭痛に、その音は堪え、ふらりと廊下に倒れこんだ。ヒステリックなその音は、10秒ほど鳴り響き、ぴたりと止んだ。でも、まだ音の余韻が廊下の隅々まで残っていて、本格的に吐きそうになった。90度回転した視界で、意識が遠のきそうになるのをひっしで食い止める。腕を、摘める限りの力で摘む。鈍い痛み。
ようやく、平衡感覚が戻ってきて頭を軽く押さえながら、立ち上がる。
…聞き覚えがあった。あの劈くような不快な音に、とんでもなく聞き覚えがあった。勝手にフラッシュバックを始める頭を無理やり引き離す。吐き気がする。気持ち悪い。気持ち悪い。
廊下に目をむけた。


「……え、」


いっせいに、扉が開く。扉が開く音は、聞こえなかったけれど。急に廊下の左右の壁が開き、人が出てきた、1人、2人、3人、…こんなに、人が居たのか、と驚くほどの人数が、それぞれ部屋から出てくる。みな白衣を着て、足音も様々、ただの人間にしかみえない。ただ、白い廊下の左右から同じ格好をしたひとたちが同じ場所を目指している光景は、こんなにも狂気的なんだろうか。無表情で、まっすぐに歩いてくる。目は、死んだ魚の眼みたいだ。
あまりの気持ち悪さにまたよろめく。そして、俺はどうにかしていたんだろう、…みんな、俺のほうに向かってくる。逃げろ!と極彩色、赤と黄色を混ぜた警戒信号が眼の裏で瞬いた。ザッ、ザッとスリッパの擦れる音。


「あ…」


思わず、ガラスに手を突いて、後ずさる。
死んだ目をした集団は、俺に目もくれずに、立ち止まった。先頭に立った誰かが、(男か、女かさえ分からない。無個性な顔をしていた)胸ポケットからカードを、出す。ピッと電子的な音がして、また扉が左右に音もなく開いた。
状況に付いて行けずに立ちすくむ。何十人も居るようにみえたが、実際は12人程度で、ぞろぞろと部屋の中へ入っていくものと、外に立っているものがいた。俺には、目もくれない。見えていないのかも、しれない。見えていて、無視しているのかもしれないけど。
ガラスに手をついたまま、廊下の先を見る。遅れて、やってくるシャマルが、見えた。
スリッパを引きずりながら、やっぱり他の人とは違うくたびれた白衣を着ている。その顔が、今まで見せたどんなものよりも、真剣で、蒼白だった。急に嫌な胸騒ぎがして、ガラスの向こうを見ると、ゴクデラくんの周りには人だかりが出来ていた。
だらりと、力なく放り出された右足だけが、かろうじて人垣の間から見える。…やばい、やばい、たすけて、どうしよう、きもちわるい、いたい、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、急に、幼い誰かの叫び声。絶叫。
強烈な眩暈。また重力に逆らえずに倒れかけた俺を、シャマルが支える。振り払う力さえ、でない。
異常だ、と思った。気持ち悪い。目の前で何をやっているのかは分からない。ふらりと前に進み出て、ガラスに額をぶつけた。ひんやりとしたガラスは、いっそ冷たいくらいに突き放した温度を掌に伝える。


「ゴクデラくん」


か細い、弱りきった声になった。 俺は、これがなんだかしっている?知っている?いやだ、いやだ、知りたくない、知りたくない、知りたくない、知りたくない、きもちわるい、逃げたい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい!


「ツナ」
「ゴクデラくん、ゴクデラくん、ゴクデラくん、いやだよいやだよ、いやだよ」
「………おい、」


シャマルが伸ばした手を、払いのける。俺を見て、ひどく深刻な顔をしたシャマルは、驚いた顔をした。その後、目を伏せる。
その顔は、やっぱりイラつくほどに見覚えがあって、動作のひとつひとつが、何故かゴクデラくんに似ている。こいつは、敵だ。てきなんだ。よろめきながら、走り出す。ふらり、とシャマルにぶつかった。シャマルはとめない。俺は、ガラスを通り越して、扉へ向かう。口が勝手に動いて、何事か呟き続けていた。


「いやだよ、いやだ、いやだ、嫌だ」


開けっ放しになっているドアの内部へ、踏み込む。
途端に、足が止まる、息が出来ない、息が出来ない。苦しい。恐怖で、涙腺が刺激される。白衣の人たちは、俺の方をちらりとも見ない。みな、ガラスからは見えなかった、機械を覗き込んでいた。
足が進まない。もう逃げ出してしまいたかった。この中へは、入りたくない、絶対に。嫌だ、と本格的に悲鳴を上げ始める。頭はもう限界まで痛み、目が霞んだ。吐きそう、ではなく、ツンと鼻の頭が痛んだ。食道を何かがせりあがってくる。
身を屈めて、口を手で押さえた。自分の、濁った声を聞く。長い間、何も口にしていない、すっぱいようななんともいえない気持ち悪い味が口の中に広がり、白い床を吐瀉物が汚した。入り口で、俺がそんなことをしても、誰も何も言わない。
機械だけが、リズミカルに音をだしている。ピッ、ピッ、ピッ、ピッと、赤いランプが点滅する。電子音、電子音、耳の裏に張り付いて、随分と狂気的な響きだ、と思った。 視線を感じて、吐瀉物で手と口を汚したままドアの外を見ると、シャマルがまた暗く沈んだどんよりとした目で俺を見ていた。何にも、言わない。キイイとさっきの音が蘇る。俺は、この音が何を意味しているのか、知っていた。ずっと昔に、組み込まれた、もう忘れ去っていたはずの(自分で、鍵をかけて重石をつけて、どこよりも不覚に沈めていた)記憶が、浮上してくる。


絶対に、思い出すなよ。


蘇る、大人の声。(だれ?)喉がなる、息が苦しい、荒い呼吸音は自分の耳で確かめられるほど引きつっている。多分、今この世界中で一番重たいであろう、俺の脚を前に進めた。目が霞む、ゴクデラくんがいるところまでは、ほんの少しなのに、それが二重にも三重にも見えた。


「ゴクデラくん」


濁った、人間じゃない、ほかの(例えばゾンビみたいな)動物がだすような声でうめきながら、足を引きずって歩く。重たい、重たい、…かろうじて、霞んだ視界で心電図みたいなものが、見えた。俺には見方が分からないし、あれが本当に、心電図なのかも、分からない。
背筋が寒くなる、気持ち悪い。
なんでおれは、こんな得体の知れないところで、こんなことしてるの?何でおれは、こんなところで、こんなことしてるの?多分、ほんの、ほんのちょっと前までは、俺とゴクデラくんは、電車に乗って、あの素晴らしい夕焼けを見て、暑くて狭い部屋で蚊に悩まされながら、虫の声を聞いて。


そうだ、ゴクデラくん、約束してくれたのに。


花火に、行こうって、約束してくれたのに。ずっと一緒だと、思ったのに。何で?何で、何で、俺は今、こんなところを歩いてるの?訳わかんないよ、何で?俺は、一週間前まで、退屈な夏休みに、ゴクデラくんの事をきががりにしながら、ごろごろしていて、ゴクデラくんがきてくれて、ふたりで手をつないでで。
キスをして、一緒に寝転んで、俺のこと好きって言ってくれたのに!
何で今、俺こんなに苦しいの?何で今おれこんなにいみわかんないことしてんの?
もういいよ、帰れ、かえりたい、こんなとこ二度と来たくない、と逃げろ、と脳が信号を何度も、何度も、何度も、何度も、送り続ける。 かたつむりにも追い越されるほどのスピードで、崩れ落ちながら、歩く。距離は縮まらない、進まない、進んでくれない。もう一度、胃の中のものを吐く。もう吐くものがないのか、何にも出てこなかった。


「ゴクデラくんッ」


息を思い切り吸い込む、叫ぶ。よわよわしい声ではなく、絶叫めいた声が響いた。その声にも、誰も反応は示さない。ただ、赤いランプと機械音のリズムが早くなっただけ。自分自身の声に背中を押され、重たい足を引きずって歩き出す。さっきよりは、進む。大丈夫だ、たいじょうぶだ、だいじょうぶだ、なんでおれがこんなしんけんになってんの?俺って、そんなキャラだっけ?ふざけてるよ、そんなの、この電子音がなんだよ。この電子音が、なんだっていうんだよッ!
ヒッと自分の喉の引き攣れる音に、頭が内側から叩かれる音。本当は、信じられないくらい静かなはずのその天井の高い真っ白な部屋は、俺の中だけ、ひどく騒がしい。 足がふらつく、死んでしまいそう、だ。本当に。どろどろ、ぐちゃぐちゃと意識が溶けていく。拒否反応を起こす。
数人が群がった、白い塊(もうそれが何かさえ判別できない、脳みそがどろどろに溶けていくような気がした)のひとつを、掴む。恐らく、白衣だろう。口の中がすっぱい、気持ちが悪い。うえ、え、とくぐもった声が出た。


もうすぐなのに!ゴクデラくんがいるのに!


膝から、倒れこむ。ペタリ、とリノリウムの冷たい感触。…目の前に、誰かの白いスリッパが見えた。機械音が、焦燥に駆られるほど早くなっていく。
立ち上がろうと、遮二無二にその足を掴んだ。吐瀉物の嫌なにおいがする。俺が、いったい何をしたっていうの?俺たちがいったい何をしたっていうの?…俺は、この状況に、ひどく、覚えがあった。嫌なほど、覚えがあった。ねえ、なんでおれたちこんなことしなくちゃなんないの?
もっと、一緒にあそこで過ごしたかった。きみが透明だって、なんだって、存在してたのに。俺たちは、たしかに、わらってて、楽しかったハズなのに。
上から、俺を見下ろす視線。俺が足を掴んだ、その誰かが、上から死んだ目で俺を見ている。そのあと、横腹に、衝撃。ころころと、冷たい床を転がる。


「…はッ、く」


空気の抜ける音、あまりの痛さに、ぽろぽろと涙を流す。本当は、そんな理由じゃ、ないかもしれない。虫を、見ているみたいだ。一瞬で俺に興味をなくしたらしい、俺を蹴った誰かは、ゴクデラくんの横を離れて、他の機械の前に行ってしまった。
床に、体を折り曲げて無様に転がった俺を、見もせずに。電子音とランプは、更に早くなる。霞む目を上げて、ゴクデラくんがいるであろう、椅子を見あげる。
白い。白い、世界が止まった。

























「……………ゴクデ、ラ、くん」


先刻立ち去った、誰かのお陰で、空いた空間から、ゴクデラくんが、見えた。俺と同じ、ひどく荒い息をしている。急に、世界が音を立てて遠ざかった。
綺麗な、すきですきでたまらなかった緑色の瞳と、何時間、何日ぶりか、目をあわす。
俺は、床に無様に転がったまま、90度反転した世界で、ゴクデラくんを見あげる。透明じゃない、実態のあるゴクデラくんを見あげた。だらり、と垂れた白い腕が、持ち上がった。少し、その手を、ゴクデラくんが、横に振る。(バイバイ、をしているようで、眼を逸らしたかった)


眼を、離さない。
…世界が、止まった気がした。実際に世界は、止まった。俺は、この景色を見たことがあった。
ゴクデラくんの緑の眼は、苦しげに歪んだまま、荒い息のまま、俺の眼を捕らえている。まっすぐに。
横を向いて、(ああ、なつかしいなつかしいなんてなつかしいんだ)口を、昔よくみたようにぱくぱくと動かした。
…俺は、何て、バカだったんだろう!ずっと気付こうと思えば、いくらだって気付けた!


「沢田さん」


ゴクデラくんは、ずっと喋っていた。声にでなくても、ぱくぱくと口を動かす、動作で。
どうして気付かなかったんだ!?どうして、俺は。
無条件に涙が流れる。俺の体の、全ての水分を出し切ってるみたいな量で、涙が流れる。気が付くと、俺のすぐ横には、シャマルの脚があった。


機械の音が徐々に戻ってくる。


ゴクデラくんの顔が、ぼやけた。泣いているんだろうか、笑っているんだろうか。俺の涙のフィルター越しに見た、ゴクデラくんはいつか大雨の日に、俺に傘を差してくれた、ゴクデラくんを思い出させた。大雨の音が、戻ってくる、俺の頭の中はもう精神が意識が崩壊していく音で、ちょっとしたパレード並の騒音になっている。
…ゴクデラくんが、わらう。あのいつもの、泣いてるんだか笑ってるんだか、全然わかんない顔で。きっといつか行こうって、いったのに。お祭りだって、縁日だって。冬にはコタツに入って、みかんを食べて。俺たちなら、できた、はずなのに。"ありがとうございました"の文字が鮮明に浮かんでくる。
緑の眼を見あげる。
苦しげに、歪んでいるはずなのに。やっぱり笑って、でも泣いてて、俺のほうをずっと見ている。
ミスターレインマン。雨の中で、わらってる。世界を祝福してるんだか、哀しんでるんだか。どっちだろう、どっちでもあるのかもしれない。
急に、また音を立てて世界が戻ってきた。


ピイイイイと高い電子音が細長く音を伸ばす。赤いランプが、点滅を止める。
俺の前に立ちはだかっていた、誰か達は、お互いに顔を見合わせ、首を振った。振り返りもせずに、あっというまに俺の隣を抜ける、多くのスリッパの音が、背後で小さくなった。真っ白な部屋には、ピイイイとほったらかしにされた無機質な電子音と白い部屋を照らす唯一の色彩、赤いランプがついたまま。


俺は目を閉じた。
シャマルは、どんな顔をしているんだろうか。急に、気になった。すぐ横に立ったシャマルは、スリッパまでくたびれていて、ぴくりともその場を動かない。
俺はしっかりと目を閉じた。
これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。これが夢でありますように。
何度祈っても、眼をうっすらと開けても、視界にうつったゴクデラくんの白い手は、ぴくりとも動かない。90度反転した視界、ゴクデラくんの青白い顔は、いつもの表情でわらうこともなかった。


絶叫。
…俺の声、俺が出しているのかは分からない。でも、俺の喉からでている事は確かで、多分、これは俺の体を借りて、ゴクデラくんが叫んでいるんだ。
そう思うことにした。


































【END】





























>>Epirogue


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