頭がぼんやりする。
昔に一度だけ、どういった理由かは忘れたけれど、大きな病院にシスターと行ったときに嗅いだ匂いと、良く似ている。ぼんやりと無機質な真っ白い汚れの無い天井を、薄目を開けて見た。その天井に、とてつもない違和感を覚えて、何故か痛む頭と、重力が二倍になったみたいに、重たすぎる体に意識をめぐらす。
…どくん、と心臓が波打つ。
握ったまま寝た筈の、右手は何も掴んでいない!(それどころか、腕もひどく重くて上げる事ができない!)心臓が、信じられないくらい早く打つ。口を開いて、ゴクデラくんの名前を呼ぼうと声を出すと、ひゅう、と掠れた空気の音がした。
無理やり動かして少し身じろぎをすると、なんとか動くようで半身を起こすことが、できた。重たい瞼を開けて、首を振る。全体的に白を基調にした部屋で、汚れの無い真っ白なベッドが俺が寝ているものの他にもう2つ、(誰も寝ていない)あとはまるで病院にあるような、ごつごつした何に使うのかよく分からないような機材が、壁にいくつも詰まれている。


「……え」


乾いた空気の音と一緒に、小さな声がでる。ギシ、とベッドが軋んだ。上手く体を動かす事ができない。胸騒ぎが濃くなって、息苦しくなった。深く息すって、吐いて見ても状況は変わらない!ゴクデラくん、ゴクデラくん、と何度も何度も口に出して呼んでみる。が、喉がカラカラに乾燥していて、上手く声を出す事が出来ない。
ベッドから降りようと、未だ重力が二倍になっているような体の重さに、足を動かす事が出来ない。かろうじて、少し右足を動かすと、ちゃりと金属の擦れる音がした。体の上に乗っている真っ白い毛布を跳ね除け、(そういえば、まったくもって暑くない!)見てみると足首には、よくドラマで見るような真っ黒い足かせがはめられていた。
"あなたはあなたが考えているよりも、とても危険な状況にいるんです"と、ノートにゴクデラくんが書いた文字が、脳裏に蘇った。ゴクデラくんの、気配はまったく感じられない。寝る前までは、隣にいた少し高めの体温も、まったく、感じられない。
すう、と血液が引くのが分かった。背筋が寒くなる、どうしようどうしようどうしよう、とそればかりしか、考えられない。ベッドから半身を起こしたままの状態で、ぎゅうと手を握りしめた。爪が食い込んで、それが、確かに痛い。
一番、右端の白い壁が、すうと音もなく横にスライドした。入ってきた人物を見て、更に心臓が波打った。


「シャマルッ」


乾いた声で、そう言う。予想外に小さな声しか出ず、喉が張り付いているようにしわがれた声になった。
相変わらずのよれよれの白衣に、無精ひげの生えた顔をこちらに向けて、どろりとした目と目が合った。ぼさぼさの黒髪をがしがしと引っ掻き回し、口だけで何時ものように不謹慎な笑みを作った。
だんだんと、体の気だるさは消えかかっている。少し楽に動かせるようになった体で、ベッドから降りようとすると、それを拒むように右足首にかけられた足かせの鎖がまた金属の擦れる音を立てた。


「起きてたのか」
「何であんたが!」
「あんた呼ばわりかよ」


口の端を吊り上げて笑い(やっぱり、やっぱりこいつが!)俺のベッドの横に置いてあったスツールに腰掛けた。心臓が波打つ、ゴクデラくんは、どこ?ゴクデラくん、ゴクデラくん、透明で見えなくたって、いっつも俺の横に居てくれたのに!


「ゴクデラくんは!?」
「あー、っと。ちょっと落ち着けって、ツナ」
「なんであんたがにそんなこと言われなくちゃなんないんだよっ、ゴクデラくんはどこ!?」
「とりあえず、これ飲め。ただの水だ。警戒すんな、俺はお前の敵じゃねえ」


ひゅ、ひゅと喉が小さく呼吸するたびに鳴る。シャマルが差し出したのは、透明なグラスに入った水で、でもそんなもの信用できるわけが無い!敵じゃないなんて、そんなの信じられるわけが無い。生理的な嫌悪感とはまた別の嫌悪感と、気味の悪さがこみ上げてくる。
思い切り睨むと、シャマルがやれやれの口の中で呟いて、その水を少しだけ呷った。


「なんも入ってねえだろ?ホラよ」
「…………」


睨んだまま、その水を受け取る。ひんやりとした水滴が指に触れた。水は、変な味なんて一切せずに、乾いて張り付いていた喉を適度に潤してくれる。
それでも、シャマルを信用するわけには行かない。頭の中で、何度もゴクデラくんを探す。でも、ゴクデラくんは見つからず、…俺が、渡したあのノートとシャープペンシルも見つからない!


「ゴクデラくんは、何処」


自分でも吃驚するくらいの冷たい声が、喉を潤したお陰でハッキリとでた。相変わらずどろりとした目で、シャマルが顎を擦った。


「どこなの。知ってるんだろ、シャマル。俺はあんたが敵じゃないって信じない、あんたが敵じゃないなら、何で俺の脚にこんなものつけてるんだよ!」
「…あー、それな」


いっきにまくし立てると、今気付いたとでも言うように、俺の足首を見た。ちゃりちゃり、と金属の擦れる音。シャマルが探し物をするように、右ポケットを探る、見つからなかったようでこんどは左ポケット。無骨な手に、シルバーの小さな、どこにでも有りそうな鍵を取り出して、少し体を曲げた。
じっとその一挙一動を見ていると、足首でかちゃかちゃという音と、足かせが外れる音がした。


「な、これでいいだろッと」


自由が利くようになった、まだ重たい右足でシャマルの顔めがけて蹴り上げると、おどろくほど俊敏に、シャマルの手が俺の脚を掴んだ。舌打ちをすると、シャマルの眼が少し鈍く光って、またいつものどろりとした目に変わった。


「おいおい、えらい攻撃的だな。おじさんのクールな顔に傷ついたら全国のレディが悲しむじゃねえか」
「ゴクデラくんはどこ」
「…つっこみなしかよ」
「はぐらかすな」
「しかも命令口調か」


すう、とまた血液が引く。ゴクデラくんが、居ない。いない。その事実が重くのしかかって、俺の頭を混乱させる。それを悟らせまいと、おもいきりまた睨むと(俺はいつこんなことを覚えたんだろうか)シャマルは肩を竦めて、小さく溜息を吐いた。


「ここに居る。つっても、正確にゃ、この建物んの中だな」
「…本当に」
「ああ、後であわしてやるよ。つっても、その前にツナ」
「お前がっ、ツナなんて呼ぶな!」


吐き出すようにそういうと、ぱちくりと目をしばたかせてシャマルがまた、面倒くさそうに溜息を吐いた。溜息を付きたいのは、こっちだ!
ゴクデラくんがこの建物の中に居るなんて、大体ここはどこ。俺たちは、あのボロアパートでふたりでいたはずなのに。寝転がって、虫の声をきいて、ちくちくする畳の感触をわらっていたのに!


「お前は、この状況をとりあえず理解しなきゃなんねえ。まあ、話せる限りは話してやる」
「……俺が、信用すると思うの」
「信用するも信用しねえも、お前の勝手だが、俺は真実しかしゃべんねえぜ?」


正直モンだからな、とまた口を歪めてわらった。目を覗き見ても本心はよく分からない。濁った目は、わらっていない。


「で、知りてえか?何でこんな所にいるのか、ハヤトは何なのか」
「…………」
「ま、お前はまず俺に感謝しなくちゃなんねーんだけどな」
「何で」
「殺されてたかもしんねーからな。目が覚めて、もしかしたらもう極楽浄土だったかも知れなかったんだぜ?俺がお前は殺さねえでくれっていちいち頼み込んだんだからな」
「……シャマルが?」
「信用するかしねえかは、ツナ次第だけどな」


ツナ、という単語にまた嫌悪感を示す。
…そういえば、ゴクデラくんはまだ一度も俺の名前を呼んでくれたことがなかったきがする。そんなこと、聞きたいんじゃない。殺されなかったのか、本当は殺されていたのかとかじゃなくて、ゴクデラくんが何者とかじゃなくて、ゴクデラくんがどこにいるか知りたいのに!
やっと動くようになってきた体を動かして、シャマルが座っているのと反対方向の床に足を下ろした。いつのまにか、俺は真っ白なパジャマのようなものに着替えさせられる。リノリウムのの真っ白な床はひんやりと冷たく、ベッドから立ち上がると、ぐらりと一瞬眩暈がして床に座り込んだ。
シャマルは制止の言葉をかけずに、俺の行動を見ている。
頭をまた横に強く振って、立ち上がった。今度はしっかりと、裸足のままで立つ。座ったままのシャマルを少し上から見下ろして、出来る限りの嫌悪を込めて睨んだ。此処に来て、俺はさらにこの、覚えがある嫌な空気と、シャマルにひどい嫌悪を感じた。


「ゴクデラくんはどこなの」
「……しゃーねえな」


ふっとまたくたびれた溜息を吐いて、スツールから立ち上がった。猫背気味に、だるそうにシャマルが歩く。右端の壁の前に立って、俺を振り返った。ドアが音もなく横にスライドする。


「案内してやるよ、ハヤトんとこに。話はそれからだ」
「…………」


来いよ、と背中を向けたまま歩き出した。くたびれた背中からは、相変わらずくたびれた様子しか感じられない。少し迷った後、ふらつく足でその背中を追う。真っ白すぎて、気持ちが悪くなるその空間は、何故かひどく覚えがあった。デジャビュがまたせりあがってくるが、あの虫の声のような暖かい感情ではなく、ドブ川の水みたいなドロドロしたコールタアルに似たものが脳内を駆けずり回るだけだった。
ぺたりぺたり、と裸足のままでリノリウムの冷たい床を、引きずるように歩くシャマルと1メートルほど間を空けてついてゆく。どこまでも続くような長い真っ白な廊下は、ところどころに、カードと暗証番号を入れる小さな機械と、白い壁に入ったまっすぐな亀裂から、ドアがあるのだと知る。
スリッパを引きずるシャマルの足音と、ぺたりぺたりと裸足で歩く俺の足音だけが響く。また音もなく壁がスライドして、シャマルと同じ白衣を着た男の人が(こちらは、きちんとしたノリのきいた白衣を着ている)、俺とシャマルに目もくれずぶつぶつと何事か呟きながら、早足で別の扉にカードを差し込んで入っていってしまった。
驚いて立ち止まっている俺を、シャマルが見て肩を竦めた。そしてまたまっすぐに歩き出す。ひんやりとした空気は、空調設備だけじゃなく、ここが地下にあるのだと知る。地下にあるこんな組織、というとやっぱり陳腐な俺の思考は、秘密組織なんて導き出してしまって、すぐにその思考を打ち消した。それが、やけに現実味を帯びて考えられたから。現実に、そんなものがあって、たまるか!
ゴクデラくんは、本当にここに居るんだろうか、まだ無事なんだろうか、ここはどこなんだろうか、ゴクデラくん、ゴクデラくん!握っていない片手が、まるで半身をもがれたように、とても心細い。
俯いて、歩いていると急にシャマルが立ち止まってその背中にぶつかった。
すぐに体を離すと、廊下の一番はしに、よくテレビでみるような壁がガラス張りになって、中が覗けるところがあった。シャマルがそちらを向いているのに気付き、俺もその中を覗くと、真っ白な部屋に明るすぎる光が反射していて、思わず目が眩んだ。(なにしろ廊下は適度に照らされているものの、すこし薄暗い)
目を凝らしてみてみると、中も相変わらず、真っ白い部屋で、奥行きがあり、天井が高そうなその部屋の真ん中に、ぽつりと歯医者でみかけるような、ベッド(というよりは椅子に近い)があった。その横には、心電図らしきものと、俺にはさっぱりよく分からない機械が横に詰まれてあった。
その機械は、何故かとてつもなく見覚えがあって、どくんとまた強く心臓が内側を叩く。
あまりの感情の洪水に、見ていられなくなって目をそらすと、シャマルが俺を見ているのに気が付いた。ふらり、と立ちくらみがする。コールタアルが侵食する。


「…ハヤトはあそこだ」


その声に、見たくないと拒否反応を起こす体を無理やりガラスの向こうに向ける。その、真っ白い光の向こうを、目を細めて見ると、その白い椅子に座っている人物が、見えた。何故か透明にはならずに、その椅子にちからなく座っている。…よくみると、白いベルトで体が固定、されている。
その光景に、とてつもない吐き気を覚えて、ゴクデラくんを見つけたというその感動よりも先に、目の前が暗転、した。ぐわん、ぐわんと耳鳴りがする。ひどく、頭が痛い。痛い。ゴクデラくん、ゴクデラくん、ゴクデラくん?
何度頭で呼びかけても、まったく返事をしてくれない。何故か、ゴクデラくんの姿が(小さい?)脳裏に見える。冷たい床に倒れこむとぺたりとした感触に、シャマルが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。















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