夏の虫の声。何十にも重なった声が、開けっ放しの窓の外、草むらから聞こえてくる。また熱が下がってきたのだろう、さして荒くない、ゆったりとした呼吸音が目を閉じていると、虫の鳴声とともに耳に入ってきた。汗ばんだ手を握ったまま、雨漏りの跡がある、(木目が人の顔に見えなくも無い)天井をぼんやりと見つめる。太陽に晒され、変色した畳の上に寝転がっていると、すこし背中がちくりとする。
ゴクデラくんの熱は、上がったり下がったりと忙しく、俺はめったに風邪を引くことがなかったから、風邪の症状に詳しいってわけではなかったがこれは風邪ではないと、思った。今は落ち着いて、ゆったりとした寝息が聞こえている。ふたり分寝転がると、ほぼスペースがなくなってしまうほどの、狭い部屋で、(しかも、電気は切れてしまっている)相変わらず外では虫が時折ばちりと音を立てては、無謀にも光に挑戦していた。
嫌な、むなさわぎがする。
まだ俺たちがあの孤児院をでてから、3日しかたっていないけれど、もうここを動いた方がいいような気がした。所持金は…まだ、ある。ゴクデラくんは他の人からは見えないから、俺ひとりぶんの代金で済むけれど。いつかお金は無くなる。なくなってしまえば、何にも出来やしない。俺は、未成年で、その上身の上がよく分からない上に、(ゴクデラくんが言うところの)とても危ない状況に居て、…いくらどこかへ行こうと、理不尽な社会のルールからは抜け出せやしないのだ。
夜の闇と、顔を柔く照らす蛍光灯の人工的な明かりに沈むと、嫌な事ばかりが浮かんでくる。こんなこと、もう長く続くはずが無い。ゴクデラくんとずっと一緒に居られるわけが無い、とわけも分からず、その暗い思考の渦の中に巻き込まれていく。骨ばったゴクデラくんの手を、握り締めるほどどうしてもそのぽっかり空いた穴は塞がらずに、この手を離してもう二度と会えなくなるような予感が停滞した。
…俺は、ゴクデラくんのことが、好きなのかもしれない。恋愛感情でいうところの。よく考えてみれば、(よく考えて見なくとも)俺がここまで必死になれることっていうのは、本当に、少ない。いや、少ないどころか、いままでにこんなことがあっただろうか?大抵事はなんだって諦めてきたし。
横たわったまま、薄暗く照らされている歪んだ木目の天井の遥か上にいるであろう、神さまに何度も祈る。そんなことしたって、意味がないと、俺はいつも小さい頃から考えていたはずなのに。…きっと、俺みたいな無力な人間は、何かあると助けがあると、助けを差し伸べてくれると、祈れば助かると、思ってしまうんだろう。なんて矛盾!最悪だ。
小さく溜息を吐いて、目を閉じると、横でゴクデラくんが動いたのが分かった。シャーペプペンシルが宙に浮く。


"どうかしましたか"
「起きてたんだ…何でもないよ。熱は?」
"下がりました"
「そう。もし朝まで熱が出なかったら、また移動しない?」
"はい"


歪みの無い綺麗な文字が、ノートに次々と生み出されていく。敬語に、その上ノートに書いた文字だから、少しそっけない感じの文章になる。けれども、少し右に上がっているところとかに、文字の端々に滲む優しい印象を覚えた。
昼間の息苦しくなるほどの湿気を孕んだ空気ではなく、夜の清清しい風が、窓に申し訳程度に備え付けてある(焼け焦げの跡が何箇所もある)カーテンをはためかせた。鈴虫や、田んぼから聞こえる蛙の鳴声をが耳に優しく馴染んだ。また、デジャビュ。ずっと昔に、こんな風にしてふたりで虫の声を聞いていたような、気がする。何年も何年も前に。じわり、じわりと懐かしくあたたかすぎる感情が、脳を満たす。骨ばった手を握ると、またゴクデラくんが握り返してくれた。
目を閉じる。


「…花火が見たいね」


思いついたことを、瞼の裏に浮かべながら口に出す。不思議と、口に出せば耳に花火の打ちあがる音が聞こえた気がした。


「あと、お祭りにも行きたいし。カキ氷も食べたいな…あ、金魚すくいもしたいし、たこ焼きも食べたい。それから、二人で浴衣を着て、うちわを持って夜遅くまで遊んで、それからクーラーのきいた部屋でずっと喋りたい。あと一日中ずっと部屋に居たままで、ごろごろしたりゲームをしたり、あ、でも俺ゲームしたことないなあ。…あ、暑いけどふたりで見たことないところまで、冒険しに行くとか。きっと楽しいよ」


目を閉じたまま口に出す。実際俺が口に出した事は、大半がテレビや立ち読みをした漫画から得た知識で、本当は夏祭りなんていった記憶はなかったけれど、本当に体験した事があるように、臨場感溢れた祭囃子と喧騒が脳に響いた。
急にこんな事を喋り始めた俺を、変に思っただろうか。目を開けてゴクデラくんを見る。本当は、何にもない空間しか写らないはずなのに、俺は確かにゴクデラくんの体を見ることが、できた。そんな風な錯覚を起こす。
少し間が空いて、宙に浮かんだシャープペンシルがさらさらとノートを移動した。


"俺も、きっと楽しいと思います"


出来うる限り、にっこりと笑う。天井を見つめたまま、毎晩毎晩、億万長者になりたいといい続けて、結局億万長者になれた嘘だか本当だかよく分からない逸話を思い出した。口に出せば本当になる、俺は、神さまにも言霊にも縋ってしまった。


「行こうね。約束」
"はい、約束します"
「…なんだか、安物のドラマみたいだ」


くすくすと声に出して笑う。ゴクデラくんが、困惑したような、けれどもおかしそうな表情を作るのがわかった。何にも見えないのに、ほんの3日一緒にいただけで、どんな表情をしているのか分かるなんて、不思議なこともあるんだなあ、なんて。


「俺ねえ、ゴクデラくんのこと、好きだよ」


口に、出してみる。そうすると、その事実は意外なほどしっくりと馴染んだ。口に出してから、訪れた沈黙。…あ、そっか。男が男に好きだって言って引かないわけないか。と今更のように納得した。"花火が見たい"と、まったく同じ思い付きのように口に出してしまった事を後悔しても、口に出してしまったものは仕様が無いか。とまたいつもの諦観で、口をつぐんで目を閉じる。 シャープペンシルが文字を書く音がした。目を開ける。


"俺もです"


簡素な文字が、新しく開いたノートのページにぽつりと書かれてあった。目を疑うように、ぱちくりと目をしばたかせてゴクデラくんを見る。どんな表情をしているのかは、よく分からなかったが、きっとまた泣いているのか笑っているのかよく分からない顔なんだろう。
すぐに、顔が赤くなるのが分かった(馬鹿じゃないの、俺。自分で言ったくせに)。照れ隠しに、笑うとゴクデラくんも笑うのが分かった。


「…他にも。秋は二人で、美味しいものをいっぱい食べに行こうよ。俺、栗好きなんだ。それで、冬はもし雪が降ったら二人で外に行って、…積もったら雪だるまを作ろう。でも俺、雪が積もったところって見たこと無いんだよね。だから、積もればいいなあ」
"きっと、積もります"
「うん。…それで、雪合戦とかかまくらとか作ってさ。あと、しもやけになる前に帰ってこたつに入ってゆっくりしよう。楽しみだね」
"はい、とても"


相変わらず外では、平和な声が聞こえてくる。時折、電灯の攻撃的な音。とても自然に耳に馴染んでいたけれど、俺が居た帝都の孤児院(まだ、居るといえるのだろうか)では、蝉の声も、こんな虫の声もほとんど聞いたことがなかったような気がする。
帝都は、この国の全ての技術が密集した、ひどい排気ガスとくすんだコンクリートしかなくて、すれ違うひとびとはみんな早足で歩いていた。こんなにも、静かなところがあるなんて、俺はようやく落ち着いてきたのか、そんなあたりまえの事実に気が付いて、驚いた。
蛍光灯の向こうに目を凝らすと、帝都でみるような毒々しい色の、それ自体が攻撃性を孕んだ無数のネオンはまったく見つけられず、ただの静かな闇が田んぼの向こうにあった。


"ありがとうございました"


目をまたノートに移す。過去形で書かれたそれに、何故かどうしようもない胸騒ぎを覚えた。
握ったままだった手を離し、(もう、手を離す事にあまり抵抗を感じなかった)隣に居るゴクデラくんを抱きしめる。暖かい体温は、やっぱり少し高め。何で、ありがとうございました、なの?と、聞けばいいんだけど、どうしても聞く気には、ならなかった。
顔があるであろう位置に、唇を寄せる。
ちゅ、と口付けた先は鼻の頭で、すこし可笑しくなった。くすりとわらう。ゴクデラくんが、照れたように笑ったのが、わかった。…永遠に続きそうな、そんな気がする。この瞬間が。月並みな願い事だけど。俺は、陳腐なドラマとか漫画しか読んでこなかったから。でも、何故だか、永遠に続いてくれるような気がした。
所持金についての不安とか、そんなものは吹っ飛んで。きっと、もうすこししたら、二人でお祭りに出かけられる。きっと。















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