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考えもしなかっただろう、一週間前の俺は。
…探してみればあるもので、今にも崩れそうな、黒ずんだコンクリートでできたアパートには、これまた元は白かったのだろうが、黒く汚れて、はげかけた赤いペンキで"宿屋"と書いてある。恐ろしく汚いのと、踏み抜いてしまいそうなくらい軋む床と、ひび割れた窓と、6畳1部屋の狭さにさえ文句をつけなければ、驚くほど安い金額で1日借りられるというのだから、まだ世の中は捨てたモンじゃないかもしれない。(訳有りの人のために、あるようなものだ)
ひどく暑い。耳元に蚊が寄ってきては、耳障りな音を立てた。ひどい湿度のなかで、息が出来ない。動くたびに纏わり付く、重すぎる夏の夜の空気が、じっとりと肌を湿らせた。


「ゴクデラくん…、起きてる?大丈夫、かな」


起きているのか、寝ているのか。握った手は汗で湿っている。真横に、体温を感じる。…少し、熱い。暫くして、前に置いたノートに鉛筆が走るのが見えた。外にある、不健康な街灯の光で、かろうじてその文字が見えた。窓から街灯の明かりを見ると、これまた不健康な色をした蛾が、光に近づいていく。少しの間見ていると、バチッと音を立ててあっけなく街灯の下に照らされた汚いコンクリートの上に、ひらひらと横たわった。


"大丈夫です。すみません"
「何でまたあやまるの。あやまらないでって、言っただろ?」


戸惑うように、シャーペンが紙の上を左右に漂う。どんな顔をしているのか、寝転んだまま、もう少し近寄ってゴクデラくんと体をくっつける。びくり、とまた驚いたように身を引いたけれど、壁にぶつかるだけで、きっと今、また泣きそうな顔をしたんだろう。
こうしていると、信じられないくらい、懐かしい気持ちになる。何故だかはわからないけど。暖かい、春の始まりの風みたいに、嬉しさと少しの焦燥感を、感じる。それから、よく分からないけど、ぼんやりとぼやけた誰かの姿。
少し目を閉じると、雨のにおいを思い出す。


「君は、やっぱり俺には何も話してくれないんだよね」
"す"


と一文字だけ書いてぴたりと止まった。くすり、と可笑しくなってすこし笑う。


「いいよ。ゴクデラくんがその気になったらで。…暑いね。真夏だし」
"少し、離れた方がいいんじゃないでしょうか"
「やだよ」


ゴクデラくんは、たまに俺の手を離そうと、する。そういう時は、少し力を込めて握ると、まったくもって抵抗はしない。にいと笑うと、また何かを書きあぐねているように、シャーペンがノートのすこし上を左右に動いた。


「そういえば、何で敬語なの?」


少しずつ、少しずつ質問をぶつけていく。答えてくれるのなら、嬉しいし、もう別に答えなくてもいいような気がしてきた。俺は、何故かここ数日の間にひどく肝が据わったらしく(或いはもともと、こんな性格だったのか)、なんだか、なんでも来いみたいな気持ちだ。さあ、やれるものなら、やってみろ!なんて。何をされるのかも分かってないけれど。ゴクデラくんがそばに居るだけで、こんなにも違うんだ。なんて。ふざけてると、自分でも思う。
どうして敬語なのか、っていう質問には、どうやら答えられないようで(きっと、明確な理由があるわけじゃないんだろう)、次の質問を考える。


「あ、そうだ。ゴクデラくんって何歳なの?」


これには直ぐに返答が帰ってきた。整然とノートに並んだ綺麗な字。


"あなたと同じです"
「ほんとに?全然見えない、もっと年上かと思ってたよ」
"そうですか?"
「うん。すごい大人っぽいし、かっこいいし」


次の字を書こうとしていたシャーペンが、ぴたりと止まる。続いて、シャーペンがころりとノートの上に落ちた。


「どうかした?」


慌てて、シャーペンを拾ったのだろう。シャーペンが意志を持ったように、跳ね上がって、そして少しして、ノートにまた綺麗な字。とても綺麗な字だけれど、右上が少し上がるくせが、あるみたいだ。


"何でもないです"
「そう?ならいいんだけど。熱はもうでてない?」
"はい"
「少し手が熱いけど」
"平熱が高いんです"


幸せだと、素直にそう思った。なんか、少女漫画みたいで、ばかばかしいけど。(あ、でも俺少女漫画なんて読んだことなかったかもしれない)俺の毎日って言うのは、生活サイクルに基づいた時間で学校に行って、クラスメイトに馬鹿にされて、教師に嫌味を言われるだけで。シスターは母親のように接してはくれるけど、あの人は孤児院みんなの母親で、俺は大抵毎日個室に戻って、できやしない宿題に義務のように向き合っていただけだ。
一度、鏡を覗いた時に、自分の死んだ目に、わらってしまった事があった。今、鏡はないけど(洗面所の鏡は、見事に割れていた)もし、鏡があって覗き込んだら、きっと今の俺はいつもみたいな死んだ目は、してないんだろう。


"どうかしましたか?"


黙り込んでいた俺に、珍しく(いや、初めて)ゴクデラくんから、コミュニケーションを図って、きた。それに、じんわりと嬉しさがこみ上げ、ふっと笑う。


「なんか今さ、暑いし、蚊はうるさいし咬まれるし、空気は重たいしで、結構最悪な状況だと思うんだけど。…なんか、やっぱり俺ゴクデラくんと一緒に来てよかった」
"ありがとうございます"
「…お礼を言うのは、珍しいね」
"本当にありがとうございます"


また、窓の外で、バチッバチッと音がする。不規則に、窓の外の光が音にあわせて揺らいだ。きっと、小さな虫が無謀にも、あの紫のライトに挑んでいるんだろう。


"俺は"


窓の外から目を離して、ノートを見ると、その一言からまた書きあぐねているように止まった。カチカチカチと、シャーペンをノックする音と、出た芯を押し戻す動作を繰り返している。続きを促すように、ゴクデラくんの方を向いて、にっこりとわらった。少し、目が合ったような、そんな気がした。(実際俺がほほえみかけたのは、ひび割れた漆喰で固めた汚い壁だ)


"俺はあなたに付いて来て欲しくなかったです。俺はあなたが考えているより遥かに、とてつもなく最悪な状況下にいます。あなたはあなたが考えているよりも、とても危険な状況にいるんです。どうしても、どうしてそんな状況に居るのかとはお話できません。そんなことをすれば、あなたは更に危険になります。"
「…うん」
"でも、俺はとても利己的で自分勝手な人間だと分かっています。俺はあなたを危険に晒したくなかったけれど"
「うん」
"あなたが居てくれて、よかったと思っています。申し訳ありません。すみません"


ぽとりと、小さな水滴が、空中から滑り落ちた。ゴクデラくんは、また泣いてるんだ。泣き虫だ、なんて思っていると、自分の視界もすこしぼやけたことに気が付いた。ぎゅう、とゴクデラくんの体を抱きしめる。何にも無いように、見える空間だけど、本当はここにはとてつもなく優しい人がひとり居て、少し高い体温で、いつだって泣きそうな顔でわらうのだ。
わけも分からないけど、俺が今どんな状況に居ようと、俺はいまきっと世界で一番、幸せな人間なのだ。こんなにも、優しい人の存在を知る事が出来たのだから。今、ここで抱きしめてあげることが、できるのだから。















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