不自然なふくらみが、すこし上下している。俺のベッドのシーツは、水を吸って少し湿っていて、静かな部屋には、ゴクデラくんの苦しそうな呼吸の音が聞こえた。少し開けた窓から、深夜の冷たい空気が流れ込んできて、ふと時計を見ると、午前三時。
毛布が、不自然にふくらんでいる。そして、規則正しく上下する。その、存在感と熱い体温を、感じるのに。俺が、見ている先は、まったくのからっぽ。人一人分のふくらみは、本来なら横たわっている人が見えるはずなのに、見えないはずの湿ったシーツが、見える。
存在を確かめるように、俺はぎゅ、とゴクデラくんの熱で湿った手を何度も、握った。居る、ここに。でも、見えない。
何時間も立って、思考はぐるぐるまわるけど、何一つ答えがでない。ただ、室内に入ったら透明になった。という事実だけ。パニックは収まったけど、ゴクデラくんに聞きたい事は山ほど、ある。
でも、見えなくなった、ということは。今までの、よく分からない矛盾とか、何かに追われてるとか。そういうのに本当になんとなくだけど、説明が付く気がして、やけに納得する。ああ、だからあの時、という風に。少しずつ、ピースが集まって一枚の絵を描く。でも、やっぱり肝心の、ど真ん中がぼんやりしていて(どうして透明になるのか、とか)やりきれない。 居る、居る。ここに居る。
何度も確かめる。時折うなされているような雰囲気で、身じろいだり、する。熱を下げるために、冷たい布を置こうにも、どこが額なのかいまいちよく分からないし、でも、手を翳すと熱い息が掛かる。ああ、どうすればいいの?どうやったら、どうしたら。何か行動を起こすにも、手を離したらその瞬間に消えてなくなってしまいそうな気がして、怖い。 でも、もう何時間も、ゴクデラくんが居る空間を見つめているうちに、ひとつ、決心が生まれた。臆病者だけど、きっとゴクデラくんも迷惑がるだろうけど、俺は、もう決めたんだ。ゴクデラくんが、目を覚ましたら。
ギギ、とベッドが軋んだ。


「…ゴクデラくん?」


言葉を発してから、自分の喉がカラカラなのに気が付いた。掠れた声が鳴る。ギ、とまたベッドが軋んで、その後俺が握ったゴクデラくんの手が、急に引っ込められた。吃驚した、けれども、絶対に離さないようにしっかりと、握りしめる。
繋がった手が、唯一、ゴクデラくんとの繋がりの様な、気がして。離してしまうと、今度こそ本当にもう、会えないような気がして。


「起きた?」


急に、何かが起き上がる気配がして、何もないのに(いや、ゴクデラくんが居る!)毛布が捲れ上がった。きっと他の人からみたら、随分とホラーな光景に見えるか、俺がすっごく変な人に見えるんだろう。何もない空を握りしめて、何もないベッドに腰掛けて、ずっと空中を見ているから。俺だって、本当にそこに居るのか、不安になるのに!
恐る恐る、ゴクデラくんが居るであろう空間に手を伸ばしてみると、やっぱりそこにゴクデラくんの体はあって、熱い体温を感じる。でも、俺の手は空中を触っているような、奇妙な光景だ。少し触れると、びくりと怯えたようにゴクデラくんが身を引いた。


「起きたんだね……何か、喋れない?」


と聞くと、何時ものように表情が分からない。どんな顔をしているのかも、こくりと頷いた仕草も分からない。空気とコミュニケーションをとっているような感じだ。でも、実際にゴクデラくんはここに存在してるし、俺は彼の手をぎゅうと握りしめている。
どうすればいいんだろう?でも、やっぱりもう俺は決めた。雨の中の、えがおが何度もフラッシュバックする。
………あ、
ゴクデラくんの手は離さないまま、精一杯伸ばして、なんとか机の引き出しを開ける。封じ込めた、緑色のシャーペン。それとノートを取り出し、精一杯、ゴクデラくんが安心してくれるように、にっこりとわらった(ちゃんと、わらえたよね)。


「もし、話したくなければいいんだけど。これに、ゴクデラくんが差し支えなければ、返事を書いて欲しいんだ」


そう、今はあの境界線を挟んだ雨と中ではない。濡れていないから、紙だって大丈夫なハズだ。沈黙、ぎゅうと力を込めて手を握る。もう何時間も握っている俺の手は、汗ばんで、すこし気持ち悪いけど。…迷っているような間。そのあと、もう片方のゴクデラくんの手が伸びてきて(実際には、俺は全然見えないんだけど。汚れた壁紙が見えるだけ)ノートとシャーペンを取った。 そして、B級ホラー映画の一場面みたいに、ノートとシャーペンが空中でふわふわと浮いた。ノートをベッドにおいて、かりかりと戸惑いがちに、宙に浮いたシャーペンがノートの上を動く。 俺は、やっときみの話がきけるんだね!急に、不謹慎だけど嬉しさがこみ上げてきて、また手を握りなおす。
ノートが宙を滑って、俺がそのノートを受け取ると、本当に達筆な字が綺麗にノートに並んでいた。(ああ、彼は文字が書けないわけじゃなかった!)急に、今度は涙がこみ上げてくる。いっぺんに、こんないろいろな感情に襲われるのは、きっと初めてだ。
やっぱり、まだ熱があるみたいで、熱い息遣いを感じる。


"すみません、迷惑をかけてしまって。俺は、喋る事ができません。それに、こんな体ですから、あなたと上手くコミュニケーションを取ることも叶いません。すみません。本当にすみません。"
「…あやまらなくて、いいよ。全然、俺はきみが元気になって、また笑ってくれればそれでいいんだ。熱は大丈夫?」


熱い手を握る。と、ゴクデラくんがほんの少し握り返した気がした。ノートを手渡す。カサカサと紙の静かな音。…すみませんが、三回。ああ、やっぱり喋れないのか。こんな体…じゃあ、体質みたいなものなのかな。でも、部屋の中に居れば透明になるなんて、そんなへんてこな体質ってないよね。


"大丈夫です。ありがとうございます。"
「……そう、よかった。でもまだ動いちゃダメだよ」
"俺は、行かなければなりません"


そう、ノートに書く。達筆な字。何故か、ただの字なのに、とても悲痛な感じがした。行かなければ、ならない?何処に?何で?疑問が渦巻く。境界線が合った頃は、どうしても立ち入ってはいけなかった。上手く間合いを取っていた部分に、俺は、今、踏み込もうとしている。否、もう踏み込む決心は出来た。今度こそ、今度こそ、絶対に前みたいなことはしない。
…いいの、かな。聞いても。(ここまできても、まだ俺は臆病者だ!)


「もし、嫌なら、答えなくていいよ」


そういって、ひとつ深呼吸をした。いつのまにか、彼の素性に触れることを、俺は疑問に思いつつ、タブーにしてきたから。もう一度、境界線を越える。


「どうしてきみは、透明になるの?…誰かに追われているって、誰に追われてるの?」


シャーペンが、止まった。本当に、居なくなってしまいそうな気がして、もう二度と離さないという風に、きつく手を握る。また、迷うような沈黙が訪れた。今、彼の姿が見えたら、きっと、ひどく哀しい顔をしているに、違いない。ああ、俺はやってしまった!
でも、やっぱりきみと、…きみのことを知りたい。


"すみません"


5文字の返答。達筆なその字が、すこし、歪んだ気がした。……やっぱり。ノートの上を、何度もシャーペンが行き来する。


「気にしないで。聞いてみただけなんだ。…もし、他に俺に話せることがあったら、俺に力になれることがあったら、何でも言って欲しい」
"ありがとうございます。お言葉だけで、充分です"
「…本当に、遠慮しなくてもいいんだよ。俺はきみの力になりたい」
"ありがとうございます"


どうして、敬語を使うのだろう?渡された、ノートの端っこが、水が落ちたようにぽつりと湿っていて、ああ泣いているのかもしれない、と思った。空に手を伸ばして、彼の体に触れる。またびくりと怯えたように身を引いて、すぐに俺の手は空を掴んだ。


「俺は、きみの力になりたい。月並みな言葉だけど。何度も言ったけど。本当に、馬鹿みたいなセリフだって分かってるけど!」


上手く伝わった?不自然にもちあがった毛布と壁に、言う。今ここに誰か人が入ってきたら、俺はきっと、とっても変なひとに見えるんだろう。でも、ゴクデラくんの熱い、ごつごつした手を俺は握ってる。その感触、それだけが、今俺の世界を回す。
俺だって、もっとボキャブラリーがあれば、全部言えるのに。俺の決心とか、ハタ迷惑だけど、俺の気持ちとか!どうしても、聞いたようなセリフしか上がってこなくて、ああなんてもどかしいんだろう。
空気が震えた。ゴクデラくんの、息遣いが聞こえる。


「きみが、どこかへ逃げるんだったら俺も行くよ。ゴクデラくんが何をしようと、絶対に手を離さない」


ずっと、考えていた。何にもないようで、居る透明な空間を見ながら。俺は、ゴクデラくんの事をなんにも知らない。なんにも。どうして、ここまで彼に必死なのか俺でも分からないし、俺だって飛躍しすぎだと、思う。でも、でも、どうしても一緒に行きたいと思った。何があるかも、何処へ行くのかも、本当に追われているのかもわからないのに。
どうしても、一緒に、居たい。
傲慢な、気持ちを押し付けた発言だって、俺の脳が言う。俺は、人に深く関わる事を良しとしなかった。こんな風に、人に踏み込む事なんて、しなかった。馬鹿なことを!とまた臆病な俺の脳が喚く。でも、きみと、ゴクデラくんと一緒に、行きたい。どこに行くのかもわからないし。それに、彼は透明だから、不便かも、しれない。でも、今手を繋いでる。
本当に、それだけ。
でも、何故か、手を繋ぐだけで何でも出来そうな、そんな気分になった。分かってる、俺の感情は飛躍しすぎだってことぐらい。全然分かってるよ!
シャーペンが、ノートの上を動きそうになって、そのままぱたりと動かなくなった。そして、ころころとベッドの上を転がって床に落ちる。ベッドの脇に腰掛けたまま、俺は隣にゴクデラくんの、きっとまだ熱い、体温を感じる。
どうして俺はこんなに必死なんだろうか。ほっとけばいい、何時もみたいに、見てみぬフリを!と脳が喚きたてた。臆病者の俺でも、できることがあるかもしれないと、もう片方の脳も喚く。大体、本当に最近会ったばっかりで、しかも話せた(というか、コミュニケーションを取れた)のは、今のやりとりだけで、しかも透明で。
よく分からないところが多すぎる、でも。本当に馬鹿だと思うし、気持ちの展開が早すぎると思うけど。でも、そうしたほうが良いと、なんとなく分かった。何にも素性の分からない、透明のゴクデラくんと、一緒に居た方が良いと、俺が、思った。(傲慢だ!)


「絶対に、離さないからね」


ぎゅうと決心するように、ゴクデラくん手を握る。…すこし握り返す力が、加わったような気が、した。存在を確かめるように、そのまま重力に逆らわず、ゴクデラくんが居るであろう空間へもたれこんだ。丁度、肩辺りに顔が乗って、(やっぱりまだ熱がある)空中でひとり、首をかしげているような、妙な体勢になった。
ゴクデラくんの、鼓動が、聞こえる。















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