り、りりと虫の声が聞こえる。俺の隣で浅く息を切らして座り込んでいる、彼は幼き日のまま(やはりやつれていて、白い入院患者然としたパジャマはドロでひどく汚れていた)、痩せすぎた顔で俺を見た。ぼう、と焦点の合わない大きな紅茶色の眼が、俺の眼とあって、そしてにこりと笑った。
ひび割れてかさかさに乾いた薄い唇が開いて、沢田さんは俺に何か耳打ちをする。かさり、と背後で俺達を隠してくれている植木が擦れる音は聞こえるのに、沢田さんの声は聞こえない。それでも、その表情は、すこし前に(もちろん夢の中)見たあのぐらり、ぐらりとしたものとは比べ物にならないくらいに素敵で、それだけでおれはすこし嬉しくなった。
俺も口を開く。声が出ない。それでも、沢田さんには聞こえたみたいで、幼い顔をまた歪めて笑う。
急に、ずっと彼の手を握りしめたままだった小さな自分の掌がやけに汗ばんでいる事に気付き、すこし気恥ずかしくなる。なんてリアルな夢なんだろう、(場面転換の仕方はいささか暴力的だが)俺は、この次の場面に想像をめぐらさない。
すこしだけしあわせだとおもった。
世界を手に入れたような、(実際は追われているのだが)この世界には俺達ふたりだけで、あとはもう好きなように遊べるようなよく分からない満足感を幸福感に襲われる。昔から、本当に小さいころからおれの幸せっていうのは、沢田さんのわらったかおと同時に訪れるものなのだ。なんて幸せ、瞳と同じ紅茶と蜂蜜を混ぜた、綺麗な色の髪の毛が俺の頬に触れる。その感触すら、…その視線でさえも!り、りりり、と夜の公園(恐らく)は虫の音が異様にする。身を縮めて座っていても、ぺとりと肌が湿気でべたつく。腰を下ろしている、道に敷き詰められた砂利の感覚、虫の音。夏の夜の匂いがする。
ぎゅう、ともう一度手を確認するように握り返すと、沢田さんも俺の方をみた。そして笑う。


「もうだれも追ってこないね」


ふいに声が蘇った。今より幾分高い、子供じみた声。(俺はこの声、この視線、色、この人すべてがすきなのだ)そして、愉快そうに笑う。そして何かを思い出したように笑い声をやめ、伏せ目をした。睫が美しい曲線を描いていた。
なぞっている行動は、きっと俺達が昔にした事と同じで、でも俺の身体の中に居るすべてを傍観しているのは今現在睡眠をとっているこの俺で、なにかとてもそれは不思議なことのように思えたが、それを深く追求できるほど、この夢は安っぽいつくりをしていなかった。(全ては俺の脳が見せている。ふざけた話だ!)
現実と夢に片方ずつ足を突っ込んでその境界線に突っ立っているような、そんな月並みで陳腐すぎる表現だけが、現実に嵌っている片足を掠めた。


「さっきの、ぜんぜん気にしなくていいんだからね」


俺の声は聞こえない。沢田さんのセリフが、唇の動きより若干遅れて俺の頭に響く。何て答えたんだろう。俺は、幼少期にどういうふうに沢田さんと話していたのか、もうあまり思い出せない。


「…そんなふうに思ってないから、はやとは悪魔なんかじゃないから」


淡々と、ひび割れた唇から地面に向けて。…少しの間、絶句する。ここまでどうやってたどり着いたかは、あの暴力的過ぎる場面転換のせいであまり記憶が定かではないけれど、"悪魔の子供だわ!"悲鳴が蘇る。間抜けたことに、俺はそのことを少しも記憶していなかった。何せよ、小さいころはその言葉にひどすぎるほど暴力的だったが、今となればあまりにその言葉を聞きすぎて、慣れてしまったのが本当のところなのだ。
下を向いたまま沢田さんは、拗ねたように膝を抱える。(なんて、なんて愛しいんだろうこの人は。俺はあなたに会えただけでも目が眩むほどの幸運なのに)はやと、と、彼はそう言った。ごくでらくんと読んでいた記憶があったのだけれど。


「あ、はやとって呼んでもいいか、な?」


控えめに、彼はそういう。もちろんです、と俺はそう心の中で即答する。小さいころの俺が何かを喋ったけれど、生ぬるい風と虫の声に邪魔されて、よく聞こえなかった。(ああ、思い出した。俺は彼の事をつなよし、と呼んでいたんだ)
…すっ、とこれから起こることの記憶が鮮明によぎった。ああ、速く逃げなければ、また来てしまう。あいつらが!木の陰に隠れている俺を、立たそうとするがまったくもって変わらない。俺は沢田さんを喋っているだけで、あせっているのはいま中から傍観している俺だけだ。夢だとしても、夢だけれども、早く逃げなければ、ああ時間が、ない!


沢田さんが大きな目を更に見開いた。俺の背後を凝視する、そして、何か、叫んだ。否、叫ぶ前に、途切れてしまった。
視界が暗転する。その瞬間に、沢田さんの背後がちらりと目に入った。俺も、何かを叫ぶ、(ああ、何てことだ。やっぱりあれはシャマルだったのか!)伸ばした手はあっというまに振り解かれた。口に当てられた布の感触が、枕の感触と少し似ている。俺は、寝ているのかそれとも?

















>>05



拍手