「モトキさん」と俺がそう口を開いても、彼の眼がこちらを向くことは、そしてその猫に似た眼が俺の両眼を射抜くことなど十回に一回あればひどくラッキーな事だった。彼から向けられるものは大抵が、悪意を持っているようにしか思えない、別の生き物のような白球と、マウンドの上からの冷ややかな視線だった。それでも、あの土の盛った、高い位置に君臨する彼をひどく好きだったのは何時の話だろうか。…否、訂正。好きではなかった。好きか嫌いかのグラフで例えると、それはあらゆる時あらゆる状況で、ぐらり、ぐらりと揺れ動き、たまに普通値を越えて好きなほうに傾くかと思えば、その一分後に普通値を軽々と乗り越えて、嫌いというよりは大嫌いの方へ傾いた。それほど曖昧だった。
俺はこの人の正体を図りかねている。焦がすような憧れがあった。届かない。憧憬ともいえるその感情は、ゆっくりと、じりり、じりり、と真夏のグラウンドのど真ん中に立っているように、抗えない太陽光みたいに、身体の内部から焦がす。ああ、そうだ、あれに似ているかもしれない。小学生の頃にやった、虫眼鏡で凝縮された太陽光。焼けていく白い紙にできた、焦げ茶色の歪な穴。そんな風にして、あいつは、あの猫みたいな眼で俺の身体のどこかに、あんな感じの穴を開けた。
そんな誌的な喩など、実際はこれっぽっちも必要ない。あっというまに神経の奥の、感情の墓場あたりに持っていかれて埋葬されて、二度と出てくる事はない。
「モトキさん」
もう一度、隣に視線を寄越さずに、呼びかける。少し間があってから、怠慢そうに彼は首をこちらに回し、「なんだよ」と不服そうに口を尖らせた。(不機嫌になりたいのはこっちの方だ)すこし頭にきたので、真黒の吊り眼を見ずに口を閉ざしたままにする。「なに」とまた眉根を寄せて、少し乱暴に俺の肩を叩いた。
「なんだよはこっちのセリフです」
「何で」
「急に呼び出しといて、なんも喋ってないじゃないスか。何の用です」
「用があったら呼び出しちゃ駄目なのかよ」
「駄目に決まってます。こっちにだって予定あるの分かってるんですか」
「そんなん俺が知るわけねえだろ」
と傲慢にきっぱりと言い切り、口を尖らせたまま、後ろの壁にもたれかかった。目の前では、せわしなく、誰に干渉するでもない大人と、学校帰りの同年代らしき塊が、せわしなく駅に向かって歩いていく。出てくる人もいる。その流れから切り離されたように、無言のまま、自販機の隣で棒立ちになって、俺たちは立っている。会話もなにも、ほとんどない。どこかの家の夕餉の匂いがした。目の前の商店街では買い物帰りらしい、袋を持った主婦達がそれぞれの子供をつれて、けたたましく通り過ぎていく。
今日の休み時間、(しかも移動教室後、3時間目の休み時間終了を知らせるチャイムが鳴る1分と少し前に!)ポケットに入れたままの携帯が、暴力的にメロディを鳴らし、何故か隣に居座っていた水谷が「今時黒電話の音の着信って何それ変なのー、阿部らしー」と言ったのを割りと本気で殴って黙らせ、非通知着信と表示される画面を、少し睨んで通話ボタンを押した。
「おっせーのお前ワンコールででろよ今日6時に駅な絶対来いよ来なけりゃ殺す」と一方的に(通話時間6秒、驚異的)まくし立てられ、来てみればこれだ。だらり、と適当に、だるそうに制服を羽織ったモトキさんは、何故か12分遅れで到着し(あと20秒遅ければ帰るところだった)、一言も喋らないまま、自販機で自分の分だけ購入した100%のオレンジジュースをずるり、と啜っている。不服そうな顔のまま。 その姿をみて、そういえば昔100%以外のオレンジジュースは飲まないと断言していたのを軽く思い出した。(「だって100%じゃねえとかヒキョーじゃん」)はあ、と溜息を吐き、足元の老朽化して割れたコンクリートに眼を落とす。ちらり、と横目でモトキさんの顔を見ると、相変わらず、何故か不機嫌な顔をして、じい、と商店街の向こうを眺めていた。
ああ、まったくわけが分からない。この人の正体を俺は未だに決めかねている。挑戦的に笑う猫の眼をした、気まぐれな、ちょっと近寄ろうものならあっというまに牙を剥き、暴力を振るい、またその繰り返しをする、無限ループみたいなこの人は、俺の中で理解できない人ナンバーワン。ワーストの方で。
「タカヤ」
「何スか」
「お前暇なの?」
「はあ?アンタが呼び出したんでしょ。相変わらず頭足りてねえな」
「先輩に向かって何その言い草」
「いー加減にしてください。暇って…電話よこしたのアンタでしょ」
「だって来ると思ってなかったし」
「……アンタってマジで自己中」
「それが何」
傲慢。傲慢。それ以外何が当てはまるのか、この人に。マウンドの上に立とうと、更衣室で肩を並べて着替えようと、何かの気まぐれで一緒に帰らされようと、(意味分からない理由で呼び出されようと)、この人に当てはまるのは、傲慢。自分以外をいっさい、人間と認めていないような。触れる全て全部踏み潰していくような、この人が嫌いだった。ぐわん、と音をたてて、この人に対する好き嫌いの感情のグラフが傾く。
隣から気配が無くなる。前に向かってモトキさんが歩き出し、がこん、と音がしてオレンジジュースの缶をゴミ箱に捨てるのが見えた。この人なら、普通にポイ捨てくらいしそうなのだが、その当たり、きちんとゴミ箱にいれるのが、複雑なところだった。ただ、ゴミ箱にいれるとしても、ジュースの缶を燃えるゴミの方に入れたり、読み終わった雑誌を「めんどくさいから」と言い捨て、缶用のゴミ箱に捨てたりする。なんて傲慢。
身体のどこかに開いた、この人に対するわけの分からない感情のこげた穴は、どうなろうと塞がらないと、いくら嫌いになろうと確信していた。この人につけられた、今は綺麗に消えている、無数の痣みたいに、綺麗さっぱりその穴もいつか消えるのだろうか。その事を考えるのには、心臓を、強い握力で雑巾絞りにされたような痛みが伴った。
「じゃあ何でアンタ駅に来たんですか」
「たまたま」
「たまたまでこんなトコまで来るんスか」
「何で今日そんなしつけーのタカヤ」
「しつこくもなります。いい加減にしてくださいモトキさん、急に呼び出したり、何考えてんのか全然わかんねえよ」
「はあ?意味わかんねー、何で俺がお前にそんな事いわれなきゃなんねーの?」
「こっちの方が意味わかんねえよ。アンタおかしい」
すう、と両眼を射抜く猫の眼から体温が消える。黒い眼の中の瞳孔が、少し開いたような気がした。昔からの習性で、やばい、と神経が引いていく音がする。身構えると、何故か急に興味を失ったようにふい、とモトキさんがそっぽを向き、また俺の隣(50センチほど間を空けて)の壁にもたれかかった。はあ、と溜息を吐く。
「つうか、何でお前駅つってここ来たわけ」
「あんたが駅つったらここしかないでしょ」
「ふーん」
興味が薄れていくものに対して、モトキさんは「ふうん」と気のない返事をする。この人は日に何度もこの言葉を使う。また電車が到着したのか、ホームから人が固まって出てくる。改札を通って、笑い声と話し声が遠ざかっていく。ここに居ても仕様が無い。とんだ無駄足だった、ともたれていた壁から身体を離す。その動作を、モトキさんが眼で追っているのが分かった。
「帰えんの?」
「あたり前でしょ」
「タカヤ、何でここに来た?」
「はあ?もう、いい加減にしてください。あんたが駅つったからだろ」
はっと鼻で笑い、モトキさんは動かない。60センチほど間を空けて、モトキさんの目の前に立つ。面倒くさそうに、モトキさんは顔をあげて、俺の両眼を射抜いた。ああ、この眼だ。この眼だ。マウンドの上から、座る俺に向かって、容赦なく射抜くこの眼。ごくたまに、ちらりと思い出す。凝縮された太陽光。逸らせない目線の先。完璧なる傲慢。支配される。身体の隅々まで支配されていく。
「タカヤ」
「何スか」
搾り出すように、そう答える。モトキさんは傲慢に、満足げに鼻を鳴らした。意地悪そうに、唇が片方吊りあがる。獲物を捕らえた、捕食者のような、そんな仕草。ぺろり、と舌なめずり、そんな幻覚。じり、と一歩モトキさんが踏み出す。俺は、何かに怯えるように、一歩後ろに下がった。くつり、とモトキさんは喉で笑う。
「タカヤって俺の事好きだよな」
「自意識過剰もほどほどにしてください」
「だって好きじゃなきゃこんなトコまでこねえだろ」
「ふざけんなッ」
少し大きな声をだす。視界の端で、制服姿の誰かがちらりとこちらを見て、干渉せずに駅を出て行く。モトキさんは釣りあがった眼を少し、驚いたようにおおきくしたあと、また細めて、捕食者に戻る。くるり、と無理やりその視線をひっぺがして、背中を向けた。歩き出す。家に帰ろう。眼を閉じて、少し溜息を吐いた。背中に声がかけられる。
「タカヤ」
…ふいに、デジャビュ。否、デジャビュではない。俺は経験したことだ。昔に、この駅で。モトキさんと。憧憬。届かないマウンドの上。傲慢に笑う。砂ぼこりが舞って、俺は少し咽る。そして顔を上げる。あの眼。焦げた穴が広がる気がした。この人の神に似た傲慢さは、すべてを踏みにじっていく。
振り返ると、猫の眼は吊りあがったままこっちを凝視している。もう一度間合いを詰めて、詰めていく。モトキさんは眼を逸らさない。挑戦的に、喉でくつりと笑った。届かないマウンドの上で、誇らしげにこのひとは、振りかぶる。あっという間に、文字通り眼と鼻の先にモトキさんの顔があった。あちこちが跳ねた黒髪を、無理やり掴む。思い切り顔を引き寄せて、無理やりにキスをした。
眼を開いたまま、モトキさんの猫の眼は異常な大きさにまで見開かれ、長い睫毛が刺さりそうな、そんな気がした。







































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